もしも研究所

アベラールとエロイーズの往復書簡は「本物」なのか

歴史のあやまち · 2026-02-23 · 約5,000字 · 約10分

これは、12世紀パリで起きた、ヨーロッパでもっとも有名な「書かれた」恋の物語です。哲学者と若い才女が出会い、引き裂かれ、そして残された手紙だけが、800年後の私たちに彼らの声を伝えている——と、長く語られてきました。けれどその「手紙」が本当に二人の手になるものなのかは、じつは今も決着していません。この記事は、恋の物語をなぞる前に、まずどこまでが確かで、どこからが係争中なのかを、層に分けて置き直すところから始めます。

結論を先に:史料が記録していること・係争中であること

この記事では、まず史実の骨格を確認し、次に自伝という一次証言の性格、そして書簡の真正性論争を分けて扱い、最後に二人が哲学史に遺した達成を見ます。そのうえで、「もしも」を一つだけ、大真面目に立ててみます。


1. 実際に起きたこと(史実の確認)

アベラールは1079年頃、フランス西部ブルターニュの騎士の家に生まれました。彼は長男の相続権と剣を弟に譲り、思想の道を選びます。当時のパリには、まだ大学制度がありません。それでもノートルダム大聖堂付属の学校を中心に、ヨーロッパ中から学生が集まる知の坩堝(るつぼ)ができあがっていました。

若きアベラールは論理学の分野で頭角を現し、師にあたるギヨーム・ド・シャンポーや、神学の権威アンセルム・ド・ラオンと公然と論争して、そのたびに聴衆を沸かせます。30代にはパリでもっとも人を集める教師の一人になっていました。同時に、論争で面目を潰された年長者たちの反感も、彼のまわりに静かに溜まっていきます。

1110年代の半ば、30代半ばのアベラールは、ある若い女性の評判を耳にします。エロイーズ——生年は1100年前後とされ、出会いのときの年齢には諸説あります。彼女はノートルダムの参事会員(カノン)フュルベールの姪として育てられ、ラテン語をはじめ諸言語に通じた稀有な学識で知られていました。女性の高等教育がほとんど存在しない時代に、彼女は聖職者社会のなかで際立った存在だったのです。

アベラールはフュルベールに、家庭教師として住み込みたいと申し出ます。フュルベールは、姪に当代随一の哲学者の教えを受けさせる栄誉と、同居の便宜から、これを承諾しました。教師と生徒は、やがて恋に落ちます。ほどなくエロイーズは身ごもり、アベラールは彼女をブルターニュの姉のもとへ逃がしました。そこで生まれた男の子に、二人は**アストロラーベ(Astrolabe)**と名づけます。星の高度から自分の位置を割り出す、当時の天文・航海の精密機器の名でした。知の香りのする、常識から離れた命名です。

激怒するフュルベールを鎮めるため、アベラールは結婚を申し出ますが、反対したのは当のエロイーズでした。聖職者の世界では妻帯が経歴の妨げになりかねず、彼女は自分の幸福より彼の学者としての将来を守ろうとして、秘密の結婚を選ばせます。後年の書簡には、皇后として君臨するより彼の愛人と呼ばれるほうがいい、という趣旨のことまで綴られています(この一節を二人の実感として断定できるかは、第3節で述べる理由から留保します)。

秘密の結婚は、かえって事態をこじらせました。面目を潰されたと感じたフュルベールは、手の者をアベラールの寝室へ送り込み、彼を去勢させます(1117年頃)。中世パリを震撼させたこの私刑は、加害者の一部が捕らえられ、報復として同じ刑を受けるほどの事件になりました。ここではこの出来事を、彼の人生を折り曲げた一点として最小限に記すにとどめます。身体と社会的立場を同時に砕かれたアベラールはサン・ドニ修道院に入って修道士となり、エロイーズもまた修道女となりました。のちにアベラールが創建したパラクレ修道院で、彼女は院長(修道院長)として長く生きることになります。

2. 一次証言としての自伝『わが災厄の物語』——ただし「彼の語り」である

この事件の顛末を、もっとも詳しく、もっとも生々しく伝えているのは、アベラール自身の手になる自伝『わが災厄の物語(Historia Calamitatum)』です。1132年頃、ある友人を慰めるための長い手紙という体裁で書かれました。自分の不幸を並べて相手を励ますという建て付けですが、実質は中世でも稀な、告白体の自伝です。研究者はしばしば、これをアウグスティヌスの『告白』の系譜に置きます。

注意したいのは、この自伝が冷徹なまでの自己告発を含むことです。アベラールはここで、名声の頂点にいた自分は、はじめからエロイーズを誘惑するつもりでフュルベール家の家庭教師の座を望んだのだ、と書いています。恋の始まりを美化するどころか、自分の側の計算と傲慢を、後知恵の悔悟のなかで暴いてみせる。これは読み物として強烈ですが、同時に史料としては扱いに注意がいるということでもあります。

なぜなら、これは事件の一方の当事者が、事件から十数年後に、悔悟という枠組みで書き直した語りだからです。誰が何を思っていたか——とりわけエロイーズの内面——を、この自伝から直接に取り出すことはできません。私たちが手にしているのは「起きたこと」ではなく、「アベラールがこう書いた」という一次証言です。史実の骨格(去勢・修道院入り・パラクレ)は他の史料とも整合しますが、動機や感情の部分は、彼の筆というフィルターを一枚はさんで読むのが作法になります。

3. 往復書簡は「本物」か——200年続く真正性論争(係争中)

そしてここが、この題材でもっとも誤解されやすい一線です。

一般には、こう語られます。「アベラールの自伝を読んだエロイーズが返信を送り、二人のあいだで往復書簡が交わされた。そこには、修道女となってなお消えない愛と、それを神学の言葉でねじ伏せようとする葛藤が、息を呑むほど率直に綴られている」——と。この書簡は西洋文学屈指の恋の記録として、数百年にわたり読み継がれてきました。

けれども、その手紙が本当にアベラールとエロイーズの手になるものかは、確定していません。真正性をめぐる論争は、200年ほど前にイグナツ・フェスラーが偽作の疑いを提起して始まり、1970年代にアメリカの歴史家ジョン・ベントンが体系的な偽作説を唱えて、もっとも熱を帯びました。疑う側の主張は大きく二つに分かれます——(a)アベラール自身がエロイーズの手紙も含めて全部を書いた、とみる説と、(b)真正の素材を含みつつ、現存する形は後世の編集・創作である、とみる説です。

これに対し、エティエンヌ・ジルソン、ピーター・ドロンケ、コンスタント・ミューズ、メアリー・エレン・ウェイスといった研究者は真正性を擁護してきました。ベントンの典礼・修道制度にもとづく論拠は精査の結果くつがえされ、ベント自身も1980年に自説の一部を撤回しています。書簡がアベラールの他の著作と細部で特徴的に一致する点も指摘され、現在は真正説が優勢とされます。

ただし、ここで踏み込みすぎないことが肝心です。優勢であることと、決着したこととは違う。二次的な書簡群をめぐる論点は今も残り、この論争が完全に閉じたと言い切る研究者ばかりではありません。しかもこの論争には、見過ごせない別の層があります——「12世紀の女性に、これほど高度な神学的・修辞的文章が書けたはずがない」という女性の著者性への懐疑が、偽作説の背後にたびたび働いてきた、という指摘です。つまり「エロイーズの手紙は本物か」という問いは、純粋な文献学であると同時に、誰に知性を認めるかというまなざしの問題でもありました。

だからこの記事は、書簡の一節を「エロイーズはこう思っていた」とは書きません。書けるのは「書簡にはこう綴られている」までです。この留保は、話を弱くするためではなく、まだ決まっていないことを決まったかのように書かないための、最低限の作法です。

4. 二人が哲学史に遺したもの——恋の物語の外側

恋と悲劇の陰に隠れがちですが、アベラールとエロイーズは、それぞれ思想史に名を刻む仕事を遺しています。手紙の真偽がどう転んでも揺るがない層が、ここにあります。

アベラールの側。彼が哲学史に残るのは、まず「普遍論争」への解答によってです。「人間」や「赤さ」といった普遍(一般概念)は、個物とは別に実在するのか——という中世最大の論題に対し、アベラールは、普遍とは個物とは別に実在するものではなく、意味を担う「語(ことば)」であるという立場を取りました。この立場はしばしば唯名論・概念論と呼ばれ、実在論と極端な唯名論の中間に置かれます。彼はまた『然りと否(Sic et Non)』で、教父たちの矛盾する言葉を158の論題のもとにあえて並べ、その序文で「語の多義性を疑え、文脈を確かめ、区別を立てよ」といった読解の規則を示しました。矛盾を隠さず突き合わせて吟味するこの方法は、後の大学とスコラ学の作法につながっていきます。倫理の分野でも彼は『汝自身を知れ(Ethica seu Scito te ipsum)』で、行為の善悪を外形ではなく行為者の意図に見る「意図の倫理」を展開しました。

エロイーズの側。彼女もまた、単なる悲劇のヒロインではありません。書簡に綴られた思索のなかで、彼女は「罪をつくるのは行為そのものではなく、行為者の意図である」という趣旨のことを述べ、愛から出た行為に罪はない、という一線まで踏み込んでいます。これは今日の言葉でいえば、結果ではなく意図に善悪を見る「動機主義(intentionalist)」の倫理の、きわめて早い一例です。研究者のなかには、この意図中心の見方がアベラールの倫理学の形成に影響したと論じる者もいます(ただし、この影響関係をどこまで確実とみるかは論者によって幅があります)。彼女はまた、愛のない結婚を痛烈に批判し、制度や打算を超えた「無私の愛」を語りました。中世でもっとも早く名を残した女性哲学者の一人という評価は、手紙の真偽論争のただ中にあってなお、消えていません。

5. 「もしも」の視点:災厄が、この物語を歴史に残した

ここで、残酷な「もしも」を一つだけ置いてみます。もし二人が引き裂かれず、穏やかに添い遂げていたら——この愛は、これほど長く残ったでしょうか。

思考実験として大真面目に詰めると、答えはおそらく「否」に傾きます。平穏に暮らした夫婦の日々は、自伝に刻まれることも、往復書簡として交わされることも、まずなかったはずだからです。アベラールが『わが災厄の物語』を書いたのは、災厄があったからでした。手紙が交わされた(とされる)のも、二人が離れて修道生活を送っていたからでした。**手の届かないものになったからこそ、言葉が生まれた。言葉が生まれたからこそ、800年後の私たちに届いた。**この逆説は、若くして亡くなったベアトリーチェを生涯うたい続けたダンテの物語(姉妹編「もしダンテがベアトリーチェと結ばれていたら」)とも静かに響き合います。成就しなかった愛が、言葉の中で純度を保つ——という構図です。

もう一段ひねると、こうも言えます。この物語が「歴史に残った」という、まさにその残り方こそが、真正性論争を生みました。もし無名の二人の私信であれば、後世の誰も偽作の労を取らず、疑いも起きなかった。**語り継がれるほどの物語だったからこそ、「本当に本人が書いたのか」という問いが生まれた。**災厄が言葉を生み、言葉が名声を生み、名声が疑いを生む。アベラールとエロイーズの物語は、その全体が、成就しなかったことの副産物なのかもしれません。

1817年、二人の遺骨はパリのペール・ラシェーズ墓地へ移され、今も恋人たちが訪れる場所になっています(本当に二人がそこに眠っているかにも諸説があります)。災厄の物語、と彼は書きました。けれどその災厄こそが、ひとつの愛を——そして二人の思想を——歴史のなかに残した。人生で最も壊れた瞬間が、最も長く残るものを生むことがある。アベラールとエロイーズは、そのことを800年かけて示し続けています。

この題材をもう少し深掘りする

一次史料の手触りは、原典に当たると変わります。アベラールが自分の恋と災厄をどんな筆致で告白したか、そして書簡がどれほど率直に綴られているかは、本文を読むと一気に体感できます(そのうえで、第3節の「本物か」という問いを思い出しながら読むと、味わいは二重になります)。


🌀 もしも、あの手紙が一通も残っていなかったら?

アベラールは「中世最高の論理学者の一人」として哲学史に名を残し、エロイーズは記録の隅の一行になっていたかもしれません。二人を800年生き延びさせたのは、論理学でも神学でもなく、離れてから交わされた(とされる)言葉でした。皮肉なのは、その言葉が愛されすぎたために、いまも「本当に本人が書いたのか」と問われ続けていることです。もっとも私的だったはずの手紙が、もっとも公的な論争の的になる——歴史のあやまちの棚でも、後味の長い一冊です。


主な参照

本記事は note では公開していない、The IF Lab サイト独占コラムです。

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