ベンツのモーターワーゲン ――1886年1月29日、独特許#37435が自動車を生んだ
特許博物館 · 2026-06-09 · 約2,500字 · 約6分
馬が引かない、馬車のような乗り物。 それは1886年の独国マンハイムで、まだ「危険なおもちゃ」扱いされていました。
1. 3輪・0.75馬力・16km/h
カール・フリードリヒ・ベンツ(Carl Friedrich Benz, 1844-1929)は、独国南西部カールスルーエの工科学校で機械工学を学んだあと、何度かの起業の失敗を経て、1883年にマンハイムで「ベンツ商会(Benz & Cie)」を立ち上げました。固定式の据置型ガスエンジンを作る、小さな町工場だったと伝えられます。
そのベンツが、1885年の秋ごろに完成させたとされるのが、世界初のガソリン自動車**「Patent-Motorwagen Nummer 1(パテント・モーターワーゲン第1号)」**でした。
仕様は、現代の感覚からするとほとんど「自転車」に近いものです。
- 車体構造:鋼管フレームの3輪(前1輪・後2輪、舵取りは前輪)
- 機関:単気筒・4ストローク・水平配置のガソリン機関、排気量約954cc
- 出力:約0.75馬力(毎分約400回転前後とされる)
- 駆動:機関→ベルト→チェーン→後輪
- 最高速度:約16km/h(10mph)
- 車両重量:約265kg
- 燃料:リグロイン(石油エーテルに近い軽質溜分。当時は工業用洗浄剤として薬局で売られていた)
馬車の御者台のような2人掛けのベンチが載り、その下にエンジンと駆動系がむき出しで詰め込まれている。ハンドルではなく、**ティラー(操舵レバー)**で前輪を切る。ブレーキは木製シューを車輪に押し付ける、ごく原始的なものだったと伝わります。
注目すべきは、これがダイムラーやマイバッハの作っていた「既存の馬車にエンジンを後付けした車」とは設計思想が違う点です。ベンツの第1号は、最初から「ガソリン機関で走ること」を前提に車体・駆動系・冷却・点火を一体設計した最初の例とされます。点火には電気火花式(誘導コイルとバッテリー)が使われ、これも当時としては先進的でした。
2. 独国特許 DRP#37,435
完成からほどなく、ベンツは特許出願に動きます。
1886年1月29日、ベンツに与えられた独国特許は、DRP(Deutsches Reichspatent)第37,435号。タイトルは**「Fahrzeug mit Gasmotorenbetrieb(ガス機関を備えた車両)」**と伝えられます。出願日は1886年1月で、後年これが「自動車の誕生日」として広く引用されるようになりました。
特許の意義は、機関そのものではありません。 ベンツは、
- 自走するための車体構造
- 機関→駆動輪までの動力伝達
- 操舵と制動を組み合わせた一体の乗り物
を一つの発明として保護した点で、馬車工業や自転車工業の延長ではない、新しい産業の起点を作ったとされます。「ガス機関」と書かれていますが、これは当時の用語であり、実体は液体燃料(リグロイン/のちのガソリン)を気化させて燃やす内燃機関を指しています。
DRP#37,435は、現在も独国特許情報サービス(DEPATIS)で原文を確認できる、公的に残る一次資料です。世界中の自動車史の教科書がこの番号に立ち戻るのは、それが「人類が初めて自走車両を制度として認めた瞬間」を指し示しているからだと言えます。
3. ベルタ・ベンツの106km、世界初の長距離走行
ところが、特許を取っても車は売れませんでした。 1886年7月の独紙報道による公開走行のあとも、市民の反応は冷ややかで、騒音・煙・暴走の恐れから「危険なおもちゃ」と見なされていたと伝わります。ベンツ自身も、自分の発明の販路をうまく見つけられずにいました。
風向きを変えたのが、妻**ベルタ・ベンツ(Bertha Benz, 1849-1944)**です。
1888年8月初旬のある早朝、ベルタは夫に何も告げず、二人の息子オイゲンとリヒャルト(当時15歳・14歳前後と伝わる)を連れて、改良型の3号車に乗り込みます。目的地は、自分の実家のあるプフォルツハイム。マンハイムから直線距離で約106km、当時の道路事情を考えれば、ほぼ「未踏」と言ってよい長旅でした。これが世界初の長距離自動車走行として知られています。
旅程は、トラブル対処の連続だったと伝わります。
- 燃料のリグロインが尽きると、街道沿いの町ヴィースロッホの**シュタットアポテーケ(市薬局)**で買い足した(このため、この薬局はのちに「世界初のガソリンスタンド」と呼ばれるようになりました)
- 燃料管が詰まったときは、自分の帽子から抜いたヘアピンで通した
- 点火コイルの絶縁が破れたときは、ガーターベルトの布を巻いて応急処置をしたとされる
- 木製ブレーキシューが摩耗したときは、途中のシューマーカー(靴職人)に革を釘で打ち付けてもらった(これが世界初のブレーキパッドだと語られることがあります)
- 上り坂では子どもたちが降りて車を押した
夕方、無事プフォルツハイムに着いたベルタは、夫に電報を打ったと伝えられます。
この「無断ドライブ」は、単なる家族のエピソードではありませんでした。ベルタは確信犯的に、**「この車は実際に町から町へ走れる」「素人の自分でも修理しながら使える」ことを公衆の目の前で証明してみせたのです。新聞が騒ぎ、注文が入り始めます。彼女が帰路に夫に進言した「上り坂用にもう1段ギヤが必要だ」**という指摘は、その後の改良に取り入れられたとされます。
現在、この経路は**「ベルタ・ベンツ・メモリアルルート」**として欧州文化ルートに認定され、観光道路になっています。
4. ヴェロからメルセデスへ
長距離走行の成功後、ベンツ商会は商品としての自動車を本格化させます。
1893年、4輪化された**「ヴィクトリア」を発売、続いて1894年に小型の「ヴェロ(Velo)」を投入します。ヴェロは、世界で初めて量産された自動車のひとつとされ、1894年から1902年までに合計1,200台規模**が生産されたと伝わります。手作り工房から、初期の自動車「工業」への移行点だったと言えます。
一方、シュトゥットガルト郊外ではゴットリープ・ダイムラー(Gottlieb Daimler, 1834-1900)とヴィルヘルム・マイバッハが、別系統で高速エンジン搭載車を作り進めていました。ベンツが「自走する乗り物そのもの」を設計したのに対し、ダイムラー=マイバッハは「軽量・高回転の汎用エンジン」を作って馬車・船・鉄道車両に載せていく路線です。両者は同時代の独国南西部で、ほぼ知らずに並走していたとされます。
第一次大戦後の不況と1923年ハイパーインフレを経て、両社は1926年に合併しダイムラー・ベンツ社(Daimler-Benz AG)が誕生します。ブランド名にはダイムラー側の販売店オーナーの娘の名にちなむ「メルセデス」が使われ、これが現在のMercedes-Benzにつながっていきます。1886年の3輪車から数えて40年、自動車はすでに世界の都市を変えはじめていました。
ベンツ本人は1929年に亡くなりますが、ベルタはそれより15年長く生き、1944年、95歳で没したと伝わります。
「もしも」の問い
もし1886年1月29日の特許がなく、ベンツが「危険なおもちゃ」を作っただけで終わっていたら——。 もし1888年8月の朝、ベルタが家を出なかったら——。
20世紀の都市は、いまとはまったく違うかたちをしていたかもしれません。
DRP#37,435の真の革新は、エンジンの巧みさそのものより、**「動力源を内蔵した個人移動体」**という概念を、最初に制度の言葉で囲い取ったことにあるとされます。鉄道は線路に縛られ、馬車は馬の体力に縛られていた。それを外したとき、人と物の動き方は不可逆に変わる——その引き金が、マンハイムの小さな工場と、子ども2人を乗せた106kmの長旅でした。
発明は、特許の番号として残ります。 けれど、それが世の中に出るかどうかは、誰かが実際にそれに乗って、町から町へ走ってみせるかどうかにかかっている。
世界最初の自動車の物語は、そのことを、いまも私たちに思い出させます。
参考・出典
- Mercedes-Benz Group — Tradition / Carl Benz — メーカー側の公式史料
- DEPATISnet — Deutsches Reichspatent 検索 — 独国特許庁の特許原文データベース(DRP 37435)
- Bertha Benz Memorial Route 公式サイト — 1888年8月の長距離走行ルート
