もしも研究所

アインシュタイン冷蔵庫 ――1930年、可動部のない冷蔵庫を狙った特許#1,781,541

特許博物館 · 2026-06-09 · 約2,600字 · 約7分

朝刊で「一家四人、冷媒漏れで中毒死」の見出しを読んだ物理学者は、 紙面を畳んでこう呟いたと伝わります——「動く部品をなくせないだろうか」。

1. ベルリンの新聞記事と二人の物理学者

舞台は1926年のベルリンです。当時のドイツでは、家庭用の電気冷蔵庫がようやく中流家庭にも普及しはじめたところでした。ところが普及と入れ替わるように、冷媒の漏れによる事故も増えていきます。当時の冷媒は二酸化硫黄(SO₂)や塩化メチルなど、毒性の強いガスが中心でした。圧縮機の軸受けが摩耗してシール(密封部)が劣化すると、寝室にまでガスが回り、就寝中の家族がそのまま帰らぬ人になる——そんな悲劇が、地方紙のすみずみまで報じられていたとされます。

伝わるところでは、その年のある朝、アルベルト・アインシュタインは新聞でベルリン市内の一家全員が冷媒漏れで死亡した事故の記事を読みました。彼は当時すでに一般相対性理論の人として世界的に知られた存在でしたが、特許局審査官時代の発明家気質は失われていなかったようです。アインシュタインは若い物理学者レオ・シラード(Leó Szilárd, 1898-1964)に声をかけます。「可動部のない冷蔵庫を作れないか」——というのが、二人の共同研究の出発点だったと、後年シラードが回想で語ったと伝えられています。

シラードはハンガリー出身の物理学者で、のちに核連鎖反応の概念を最初に着想し、1939年にアインシュタインにルーズベルト大統領宛ての書簡(いわゆる「アインシュタイン=シラード書簡」)を書かせた人物としても知られます。1926年の時点ではまだ20代後半、ベルリン大学の若手研究者でした。理論物理の巨人と、行動力の塊のような若手——この組み合わせが、家電の特許庁に大量の書類を送り込み始めます。

2. 可動部なし、熱で動かす設計

二人が狙ったのは、ピストンや回転コンプレッサーといった機械的に動く部品をすべてなくすことでした。動くものがなければ、摩耗するシールもない。シールが劣化しなければ、冷媒も漏れない。冷媒漏れがなければ、ベルリンの一家が眠ったまま亡くなることもない——という、ひどく真っ直ぐな発想です。

代表的な方式はおおむね3系統あったと整理されています。

ひとつ目は吸収式(absorption type)。アンモニア・水・ブタンの三成分系を、ガスバーナーや電熱の「熱」だけで循環させる方式です。熱で蒸発したアンモニアが、別の容器で吸収液に取り込まれ、圧力差で液体に戻る——という熱化学サイクルを使えば、コンプレッサーがいりません。後年の小型ガス冷蔵庫やキャンピングカー用冷蔵庫の原理に近い系統です。

ふたつ目は拡散吸収式で、これは1920年代前半にスウェーデンのプラテンとムンタースが先に基礎を築いていました。アインシュタインとシラードはこの上に独自の改良を重ね、起動条件や効率に関する複数の特許を別に取得していきます。

そして三つ目が、いちばん物理学者らしい電磁ポンプ式です。液体金属(カリウム・ナトリウム合金など)を冷媒の循環ポンプ代わりに使い、交流電磁場で液体金属を「押す」ことで流体を回す——という、可動部ゼロの構造です。後年のロスアラモスでシラードが原子炉冷却の文脈で再度検討したと伝えられるのも、この電磁ポンプ式の延長線にあると言われています。

特許出願は1926年から1933年ごろにかけて、ドイツ・イギリス・アメリカ・フランス・ハンガリーなど各国で合わせて約45件にのぼったとされ、うち30件以上が成立したと整理されています。その中心に位置するのが、1930年11月11日付与の**米国特許 #1,781,541「Refrigeration」**で、ドイツでは DRP #554,959 など複数の独国特許が並びます。明細書の図面には、アインシュタインの几帳面な筆致と、シラードの実用志向が混じったような、いかにも実験室的な配管図が描かれているとされます。

3. フロンに敗れた特許 ――AEGの試作機

二人の特許群には、当時のドイツ電機大手AEG社がライセンス契約で関心を示しました。AEGはシラードを技術顧問のような形で雇い、ベルリン郊外の工場で実験機の試作を進めたとされます。年産は10台前後、コスト的には市販には程遠い水準だったと整理されています。1931年ごろまでには動作する試作機が組み上がったとも伝えられますが、量産化には踏み込めませんでした。

そこに、決定打のように現れたのがフロン(CFC)です。1928年、米ゼネラル・モーターズ傘下のフリジデア社で、トーマス・ミッジリーらがジクロロジフルオロメタン(後のR-12)を合成。1930年には公開実験で「自分で吸って、ろうそくの炎を消してみせる」というデモまで行い、毒性の低さと不燃性をアピールしました。GMはこの新冷媒をキネティック・ケミカルズ社を通じて1931年から本格量産に乗せ、フリジデア・ブランドの電動コンプレッサー冷蔵庫が一気に世界市場を取りに行きます。

フロンの登場で、皮肉な事態が起きました。アインシュタイン冷蔵庫の存在意義は「冷媒が漏れても安全(=可動部なし)」だったのに、冷媒そのものが安全になってしまったのです。電動コンプレッサー方式は、可動部があっても安全な冷媒を使えば事故は起きにくい。しかも大量生産で安く作れる。AEGはアインシュタイン側との契約を1933年ごろに整理したと伝えられ、二人の特許群は商品化されないまま引き出しに収まっていきます。

加えて、1933年にはアインシュタインがナチス政権を逃れて米国へ亡命します。シラードも英国経由で米国に渡り、研究の関心は核物理へと移っていきました。冷蔵庫の特許の話は、当事者たちの間でもしばらく忘れられた格好になります。

4. 80年後のフロン代替、自然冷媒として再発見

ところが20世紀末になって、フロンがオゾン層破壊の主犯として国際的に規制対象となります。1987年のモントリオール議定書、その後のキガリ改正——という流れの中で、フロン系冷媒は段階的に使えなくなり、代わりにアンモニア・水・炭化水素といった、いわゆる自然冷媒が再注目されるようになりました。アインシュタインとシラードが80年前に扱っていた組み合わせと、ほぼ同じです。

2008年、英オックスフォード大学の研究者マラム・パストーリー(Malcolm McCulloch のチームに所属したパストーリー研究員、と紹介されることがあります)が、アインシュタイン冷蔵庫の復元実験を発表したと報じられました。電力をいっさい使わず、太陽熱や工場排熱だけで動く冷蔵庫——という、オフグリッド時代の文脈での再評価です。効率は現代の電動式に及びませんが、電気がないアフリカ農村でのワクチン保存などへの応用が議論されたと伝えられます。

ロスアラモスでのシラードの「再利用」エピソードもあわせて押さえておくと、面白い線が引けます。第二次世界大戦後、シラードはマンハッタン計画で得た原子炉設計の知見を踏まえて、液体金属を電磁ポンプで循環させる冷却系——という発想に戻ったとされます。原子炉の一次冷却に液体金属を使う系統(高速増殖炉など)の系譜と、アインシュタイン冷蔵庫の電磁ポンプ式は、構造としては地続きと見ることもできます。家庭用冷蔵庫として失敗したアイデアが、半世紀後に原子力の高温側で生き延びていた、という解釈です。

「もしも」の問い

もし1928年にミッジリーがフロンを合成していなかったら——。 アインシュタインとシラードの吸収式・電磁ポンプ式冷蔵庫は、もう少し市場の余地を得て、ドイツの家庭に少しずつ入り込んでいったかもしれません。コストは高くついたでしょうが、可動部のなさは「壊れない家電」として一定の支持を得た可能性はあります。

逆にいえば、フロンというあまりに便利な解が早く現れたことで、世界の冷蔵庫は半世紀以上、可動部つき・合成冷媒の一本道を走ることになりました。その代償としてオゾン層と気候の問題を抱え、いま自然冷媒へ戻りつつある——という構図です。

ベルリンの新聞記事を畳んだ二人の物理学者の発想は、商業的には敗れました。けれど「冷媒を漏らさない/壊れない」という出発点は、いまの自然冷媒・ヒートポンプ・吸収式冷凍機の議論にそのまま接続できます。失敗特許の引き出しは、80年後に開けてみると、案外まだ使える図面が入っているのかもしれません。


参考・出典

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