もしも研究所

ノーベルのダイナマイト特許 ――1867年、「死の商人」が遺した賞の起源

特許博物館 · 2026-06-05 · 約2,600字 · 約7分

世界でもっとも有名な賞の名前は、爆薬の発明者のものです。 その爆薬は、弟の命と引き換えに完成しました——。

1. ニトログリセリンと、爆発事故の家族

アルフレッド・ノーベルは1833年、スウェーデン・ストックホルムで生まれました。父イマヌエルは技師であり発明家で、機雷や火薬の研究を進めていた人物です。一家は1842年にロシアのサンクトペテルブルクへ移り、父は機雷工場を経営して財をなしたと伝えられています。家業の中心は、当時のロシア軍向けに納められる地雷・機雷でした。火薬と爆発物は、ノーベル家にとって日常の道具だったわけです。

当時の最先端の爆薬は、イタリアの化学者アスカニオ・ソブレロが1847年に合成したニトログリセリンでした。グリセリンを硝酸と硫酸の混酸で処理して得られる、無色透明の油状の液体です。同量の黒色火薬の数倍とも言われる威力を持つ一方、衝撃や摩擦、温度変化に対してきわめて敏感で、容器を傾けただけ、温めただけで爆発する例が相次いでいました。ソブレロ自身が「実用化はあまりに危険だ」と公言していたほどです。

アルフレッドはこの不安定な液体を、なんとか安全に扱える形にできないかと考えます。1860年代に入ると、彼はストックホルム郊外のヘレンボリにあった父の小さな工場で、ニトログリセリンの製造と起爆方法の改良に没頭していました。1863年には雷管の原型となる起爆装置を考案したとも伝えられています。

1864年9月3日、その工場が爆発します。実弟のエミール・ノーベルを含む計5人が死亡したと記録されています。エミールはまだ20代の若さでした。父イマヌエルは事故のショックで脳卒中に倒れ、その後は床に伏すことが多かったと伝えられています。当局はヘレンボリでのニトログリセリン製造を禁止し、市の中心部での研究も認めませんでした。アルフレッドは湖に浮かべたはしけの上で実験を続けたという逸話が残っています。

身内を爆発事故で失いながら、それでも液体爆薬の研究を続けた——この事実は、後年の「死の商人」批判と、その後の賞の創設を語るうえで、外せない出発点です。

2. 珪藻土が変えた爆薬 ――特許#1,345

転機は、ニトログリセリンを吸わせる「担体」の発見でした。アルフレッドが選んだのは、北ドイツのリューネブルクハイデなどで採れる珪藻土(ドイツ語でKieselguhr/キーゼルグール)です。珪藻という単細胞藻類の殻が長い時間をかけて堆積してできた、多孔質で軽い土です。

この珪藻土にニトログリセリンを質量比でおよそ3対1ほどの割合で吸わせると、液体は土の細かい孔の中に閉じ込められ、衝撃や摩擦には反応しにくくなる一方、雷管で起爆すれば本来の爆発力を保ったまま炸裂します。「持ち運べる」「叩いても落としても安全」「狙ったところで確実に起爆できる」——爆薬としては大きな進歩でした。

アルフレッドはこの製法を、1867年5月7日付の英国特許第1,345号「火薬の製造法の改良」(An Improvement in the Manufacture of Explosive Compounds)として登録します。商品名はギリシャ語のdynamis(力)にちなんで「Dynamite」と名付けられました。

ダイナマイトは、19世紀後半に世界中で進んでいたインフラ整備と歩調を合わせて広まっていきます。アルプス越えのゴッタルド鉄道トンネル、スエズ運河の関連工事、米国大陸横断鉄道の岩盤掘削、各地の鉱山、港湾の浚渫——人力と黒色火薬では数十年かかったはずの工事が、年単位で短縮されました。「19世紀後半の土木工事はダイナマイト以前と以後で別物になった」と評する歴史家もいます。

アルフレッドはここで止まりませんでした。1875年には、ニトログリセリンとニトロセルロースを混ぜたゼリー状の「ブラスティング・ゼラチン」を、1887年には無煙火薬の一種である「バリスタイト」を相次いで開発します。生涯で取得した特許は355件、世界に展開した工場は90以上と伝えられています。爆薬は彼にとって、純粋な研究対象であると同時に、巨大なグローバル企業の中核商品でもありました。

3. 「死の商人死す」 ――誤報が遺した転機

1888年4月、フランス・カンヌで兄ルートヴィッヒ・ノーベルが亡くなります。バクー油田の事業を率いた実業家で、ヨーロッパでも知られた人物でした。ところが、ある仏紙の編集部はこれをアルフレッド本人の死と取り違え、追悼記事を掲載してしまいます。

伝えられている見出しは「Le marchand de la mort est mort」——「死の商人、死す」。本文では「人をより速く殺す方法を見つけて富を築いた男が、昨日死んだ」といった趣旨の評価が並んでいたと伝えられています。記事の原本は所在がはっきりせず、文言には複数の伝聞があるため、細部はやや控えめに受け取る必要があります。しかし、何らかの形で「自分自身の悪しき追悼記事」を生前に読んだ、という出来事自体は、複数の伝記が一致して伝えるところです。

アルフレッドが自分の死後にどう呼ばれるか——それを生きているうちに突きつけられた瞬間でした。爆薬は鉱山や鉄道の進歩を後押ししたとはいえ、軍事用途と表裏一体です。彼自身は晩年、平和運動家のベルタ・フォン・ズットナーらと交流を持ち、「私の工場は、あなたの会議よりも早く戦争を終わらせるかもしれない」と書き送ったとも伝えられています。爆薬の威力が抑止力になる、という発想です。それでもなお、世間からの呼び名はあの見出しのままでありうる——その自覚が、晩年の遺言書につながっていきます。

4. 1895年の遺言、そして1901年の第1回授賞

1895年11月27日、アルフレッドはパリのスウェーデン・ノルウェークラブで、自筆の遺言書に署名します。総資産の見積もりは、当時の額面で約3,100万スウェーデン・クローナ。現在価値で2億ドルを超える、とする推計も紹介されています(換算は前提次第で大きく動くため、おおよその規模感として参照されることが多い数字です)。

遺言の中心は、財産の**94%を基金にし、その利息から毎年、前年に人類に最大の貢献をした者に賞を授与する、というものでした。分野として挙げられたのは、物理学・化学・生理学または医学・文学、そして「諸国民の友愛、常備軍の廃止または削減、平和会議の開催および促進のために最も多くまたは最良の仕事をした人物」**への賞——のちの平和賞です。受賞者の国籍は問わない、と明記されていました。経済学賞は、後年スウェーデン国立銀行が創設した別建ての賞で、原典の遺言には含まれていません。

遺言は、親族の一部や祖国スウェーデンの政界からも反発を受けたと伝えられています。当時、これだけの規模の財産を国外の人選にも開かれた基金に振り向ける例は、ほとんど前例がなかったからです。執行は遺言執行人のラグナル・ソールマンらに委ねられ、各国に分散していたノーベルの資産・株式の整理に数年がかりで取り組むことになります。

アルフレッド自身は遺言から約1年後の1896年12月10日、療養先のイタリア・サンレモで脳卒中により63歳で亡くなりました。家族も看護師もいない、静かな最期だったと伝えられています。第1回ノーベル賞の授賞式が、命日と同じ1901年12月10日にストックホルムとオスロで行われたのは、よく知られた事実です。

「もしも」の問い

もし1864年の事故が起きていなかったら――。 もし1888年の誤報がなかったら――。

ダイナマイトは、別の誰かの名前で世に出ていたかもしれません。賞のほうも、もしかすると別の財団が、別の名前で創っていたかもしれません。けれど現実には、弟を失った発明家の手で爆薬は固体化し、自分自身の追悼記事を読まされた発明家の手で、平和を含む四分野(のち五分野)の賞が遺言の形で残された。

物理学賞・化学賞・平和賞——いずれも今では「もっとも栄誉ある賞」と呼ばれます。けれど、その元手は、ニトログリセリンを珪藻土に染み込ませるという、ごく素朴な工夫を法的に独占した、一枚の特許(英国特許**#1,345**)から始まっています。

爆薬の特許の上に、人類への貢献を称える賞が建っている。 発明と評価のあいだに横たわるこの距離は、いまも私たちに残された宿題のひとつだと言えそうです。


参考・出典

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