アンナ・アンダーソン ――1920年、ベルリンの運河に投身した「ロマノフ皇女」と1994年のDNA
偽物の博物館 · 2026-06-09 · 約2,500字 · 約6分
身分も、名前も、記憶もない女性が、運河から引き上げられる。 やがて彼女は「私は皇女アナスタシア」と語り始める——。 歴史上もっとも長く、もっとも厚い証言に守られた「偽物」の話です。
1. 1918年エカテリンブルクと、消えた遺体
1918年7月17日未明、ウラル山脈のふもとの都市エカテリンブルクで、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世とその家族が処刑されました。皇帝、皇后アレクサンドラ、4人の皇女(オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア)、そして血友病を抱えた皇太子アレクセイ。一家を幽閉していたイパチェフ館の地下室で、護衛をしていた赤軍兵士の銃弾と銃剣が、わずか数分のうちにロマノフ一家の生命を奪いました。
ところが、遺体はすぐには見つからなかった、というのが、その後数十年の混乱のすべての原点になります。処刑を担当した部隊が遺体を森のなかに運び、複数回にわたって埋め直し、硫酸や火で痕跡を消そうとしたと伝わるためです。ソビエト政権は当初「皇帝のみが処刑され、家族は安全な場所に移された」と公表したともされ、結果として「もしかしたら誰かが生き延びたのではないか」という余白が、世界中に残ってしまいました。
特にこの余白の中心に置かれたのが、当時17歳だった末の皇女アナスタシアでした。生存説の根拠として語られたのは、処刑時に皇女たちが下着に縫い込んでいたとされる宝石類——ダイヤや真珠が銃弾を弾き、即死をまぬがれた者がいたのではないか、という噂です。事実関係は確定していませんが、こうした噂が、欧州各地に散ったロマノフ家亡命者と、革命を逃れた旧ロシア貴族のコミュニティの中で、長く生き続けることになります。
なお、エカテリンブルク郊外で皇帝・皇后と皇女3人を含む遺骨が発見されたのは、ようやく1991年のこと。残る2体(皇太子アレクセイと、皇女マリアもしくはアナスタシアと比定される遺体)が別の場所で発見されたのは、さらに2007年のことでした。つまり処刑から実に約90年、世界は「一家全員の死」を物的に確認できないまま、生存説と向き合い続けたことになります。
2. 1920年ベルリン、ランドヴェーア運河の女性
エカテリンブルクの処刑から1年7ヶ月後、1920年2月(多くの史料は2月27日ごろとし、2月18日とする記述もあります)の夜、ベルリン中心部を流れるランドヴェーア運河で、ひとりの若い女性が橋から飛び降りたところを警察官に救助されました。身分証はなく、衣服にも名前を示すものはない。問いかけにもほとんど答えず、自殺の動機も身元も語らない。ダルドルフ精神病院に「氏名不詳の女性(Fräulein Unbekannt)」として収容されました。
転機は1921年にやって来ます。同室の入院患者のひとりが、雑誌のグラビアで皇女タチアナの写真を見て、「あなた、皇女タチアナにそっくりだ」と告げたという話が伝わります。当初は否定したとも、無言だったとも記録されていますが、やがて女性は周囲に対して「自分はタチアナではなく、末の妹アナスタシアだ」と語り始めたとされます。
ニュースは、ベルリンに亡命してきていたロシア貴族たちの間にすぐに広まりました。1922年以降、彼女のもとには元宮廷関係者やロマノフ家の親類縁者が次々と面会に訪れたと伝わります。皇后アレクサンドラの侍女だったタチアナ・ボトキーノヴァ、皇太子アレクセイの教育係だったピエール・ジリヤール、皇后の妹であるヘッセ大公エルンスト・ルートヴィヒ、同じく皇后の妹アイリーン公妃——立場と肩書きを持った人々の証言が、判定を左右する材料になっていきます。
ここから先、証言は不思議なほどきれいに割れていきます。**「彼女はアナスタシアだ」と語った人々と、「明らかに別人だ」と断じた人々が、ほぼ同じ重みで存在したと伝えられているのです。彼女は通称として「アンナ・アンダーソン」**と名乗るようになり、以後60年以上、その名のまま生きていくことになります。
3. 30年の身分訴訟と、割れる元宮廷関係者
肯定派の根拠としてよく挙げられたのは、彼女が皇女しか知り得ないはずの細部——宮廷内の部屋の配置、家庭内の愛称、家族の癖や仕草——を語ったとされること、そして耳の形や足の形といった身体的特徴が皇女アナスタシアと一致するとされたことです。一方で否定派が指摘したのは、ロシア語をほとんど話さない、皇女として育った者なら忘れるはずのない作法を知らない、フランス語・ドイツ語の発音や語彙にスラブ系訛りの痕跡があるとされたこと、などでした。
1927年、ベルリンのフィヒテ警察部が興味深い報告書を出したと伝わります。私立探偵を雇って身元を追っていた関係者の調査と合わせて、ある仮説が示されました——彼女の正体は、ポーランド系の工員フランジスカ・シャンツコフスカ(1896年生まれとされる)ではないか、というものです。1916年、ベルリン近郊の軍需工場で起きた手榴弾爆発事故で頭部に重傷を負い、精神を病んだ後に消息を絶っていた女性、と報じられました。家族にも面会させたとされますが、決定的な合意には至らなかったとも伝わります。
この仮説を真っ向から争うため、アンダーソン本人と支援者は身分確認の民事訴訟を起こします。1938年に始まり、1970年に最終判決が出るまで——途中で第二次世界大戦と東西分断を挟みながら——ハンブルクの裁判所で続いたこの訴訟は、ドイツ法制史でも最長級の身分確認訴訟のひとつとされます。原告として彼女は「自分はロシア皇女アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ本人である」ことの確認と、ロマノフ家の遺産相続権を求めました。
1970年の最終判決は、よく誤解されますが「偽物と断定」したわけではない、と整理されています。判決の言い回しは慎重で、「原告がロマノフ皇女アナスタシアであるとは証明されなかった」という否定形にとどまり、同時に「偽物であるとも証明されなかった」——つまり司法は、肯定も否定もせず、立証責任の問題として原告の請求を退けた、と伝わります。30年争って、結論は「わからない」だったわけです。
その間、彼女は欧州各地と米国を渡り歩き、1968年にバージニア大学の教授だったジョン・E・マナハンと結婚し、米国に移住します。シャーロッツビルの自宅で多数の猫と暮らした晩年は、肺炎を併発し、1984年2月12日に死去しました。享年は87と記録されています。火葬され、遺骨はバージニア州に埋葬されました。
4. 1994年DNA鑑定、フランジスカ・シャンツコフスカへ
決定打となったのは、彼女の死後10年を経た1994年のDNA鑑定でした。生前に医療処置で採取され、米国の病院に保存されていた腸組織サンプルから、ミトコンドリアDNAが抽出されました。母方の血筋を世代を超えて追えるため、家系特定に向く解析法とされます。
米軍病理学研究所(AFIP)のトマス・J・パーソンズらのチームと、英国の法科学機関Forensic Science Serviceのピーター・ギルらが独立に解析しました。比較対象として、(1)皇后アレクサンドラの姉の孫にあたるエディンバラ公フィリップ殿下——皇女アナスタシアと母系のミトコンドリアDNAを共有するはずの人物——のサンプルと、(2)シャンツコフスカ家の縁戚にあたるとされる人物のサンプルが用いられたと伝わります。
結果は、肯定派にとって受け入れがたい明確さだったとされます。アンダーソンのミトコンドリアDNAは、エディンバラ公のサンプルとは一致せず、一方でシャンツコフスカ家の縁戚のサンプルとは一致した——と発表されたのです。この鑑定結果は、Gill らの論文「Establishing the identity of Anna Anderson Manahan」として 1995 年に Nature Genetics 誌(vol.9)に発表されました。
さらに2007年、エカテリンブルク郊外の別の埋葬地点で残る2体の遺骨が発見され、これも複数の研究機関によるDNA鑑定で皇太子アレクセイと皇女のひとり(マリアまたはアナスタシア)と同定されました。物的にも分子生物学的にも、ロマノフ一家全員が1918年に処刑されたことが、ようやく確認されたかたちです。アンナ・アンダーソンが皇女アナスタシアであった可能性は、ここで完全に閉じたとされます。
「もしも」の問い
もし1920年のベルリンの夜、運河から救助されたあの女性が、そのまま「氏名不詳」のまま病院を退院していたら——。 アンナ・アンダーソンという名は生まれず、ロマノフの生存伝説は別の誰かに乗り移って、また別のかたちで生き続けたかもしれません。
奇妙なのは、彼女自身が「自分は皇女である」と一度も公の場で文書として正式に主張しなかったとも伝わることです。語ったのは沈黙の合間の断片、振る舞い、表情の翳り——そういう「証拠にならないもの」ばかりだった、と書く研究者もいます。それでも30年、彼女の周囲には支援者の輪が絶えなかった。革命によって祖国を失った亡命ロシア人にとって、皇女が生きていてほしいという願いは、それほどに強かったということなのかもしれません。
偽物を作るのは、いつも偽物自身ではなく、信じたい人々の側だ——。 アンナ・アンダーソンの一生は、その逆説を静かに照らしているように思えます。
参考・出典
- Smithsonian Magazine — 1994年DNA鑑定結果の一般向け解説
- Gill, P. et al. "Establishing the identity of Anna Anderson Manahan." Nature Genetics 9 (1995) — アンダーソンのミトコンドリアDNA同定論文
- Wikipedia EN: "Anna Anderson"(複数言語版を照合・2026年6月時点)
