モナリザ盗難 ――1911年8月、ルーブルから消えた2年4か月
偽物の博物館 · 2026-06-09 · 約2,500字 · 約6分
世界一有名な絵は、もともと世界一有名ではなかった。 それを「世界一」にしたのは、2年4か月のあいだ姿を消した、という事実そのものだったのかもしれません。
1. 1911年8月21日、月曜の閉館日
事件が起きたのは、1911年8月21日。月曜日で、ルーブル美術館の休館日でした。 当時のルーブルでは、月曜は来館者を入れず、職員や清掃員、作品の点検にあたる人々だけが館内を歩き回る日だったとされます。職員の出入りは比較的自由で、白いスモックを着た人物がサロン・カレ(カレの間)の方角へ歩いていても、誰も特に怪しまない――それが当時の警備水準でした。
翌22日朝、館の壁にひとつ、不自然な空白が生まれていることに気づいたのは、模写のために訪れた画家ルイ・ベルー(Louis Béroud)でした。彼が見上げた壁には、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」(La Gioconda、1503年頃から1519年頃にかけて制作された板絵)が掛かっているはずでした。壁に残されていたのは、4本の鉄の鈎と、長方形の影だけでした。
警備員に問い合わせても、最初の反応は「写真撮影に持ち出されたのだろう」という、のんびりしたものでした。当時のルーブルでは、作品を写真室に運んで撮影することは珍しくなく、数時間から数日、壁から外れていることがあったとされます。本格的に「盗難」と判断されたのは、ベルーの第一報から数時間後だったとも言われています。
ここで重要なのは、盗まれた絵そのものの大きさです。モナリザはおよそ縦77cm、横53cm。素材はポプラ材の板で、額や保護ガラスを含めるとそれなりの重さになりますが、板そのものだけを取り出してしまえば、大人の上半身に隠せるサイズに収まります。「巨大な名画が忽然と消えた」というよりは、「持ち歩けるサイズの板絵が、休館日の喧騒のなかで持ち去られた」と言うほうが、実態に近かったようです。
2. ペルッジャの白いスモック
犯人は、ヴィンチェンツォ・ペルッジャ(Vincenzo Peruggia, 1881-1925)。北イタリア出身、当時20代の元ルーブル雇用ガラス職人でした。彼は事件のしばらく前まで、ルーブル館内の作品保護ガラスを取り付ける仕事に関わっており、内部の構造や、職員用通路、各間の動線を熟知していました。
伝えられているところでは、ペルッジャは8月20日(日曜)の閉館後、館内のとある作業用クローゼットに潜み、夜を越したとされています。翌21日朝、白い職員用スモックを羽織って何食わぬ顔でサロン・カレへ入り、人気のない隙にモナリザを壁から外しました。額と保護ガラスを近くの階段室で取り外し、ポプラ材の板そのものをスモックの下に挟み、職員用の入口から退出した――というのが、後の捜査と本人の供述から組み立てられた筋書きとされています。
犯行に複雑な道具は使われませんでした。鈎から板を持ち上げる、ガラスを工具で外す、布で包む。ガラス職人としての作業の延長線上にある所作で、目撃証言と矛盾しない範囲のものでした。「世界の宝が盗まれた」というよりは、「内部の手順を知る元職人が、月曜午前の館内を作業着で歩いた」という、地味な手順の積み重ねだったとされています。
彼が向かったのは、パリのリュ・ド・ロピタル・サン=ルイ通り(rue de l'Hôpital Saint-Louis)にあったとされる安アパートの一室です。報道や後年の研究では、5番地と紹介されることが多い住所です。ペルッジャはモナリザを布で巻き、トランクの二重底に隠し、その上に衣類を積みました。事件後、家宅捜索でこの部屋を訪れた警察官もいたとされますが、二重底の存在には気づかず、絵は2年余りそこに眠り続けます。
3. ピカソとアポリネールの取調べ
事件はパリの新聞各紙の一面を埋めました。「ルーブルからモナリザ消える」「警備の無能」「フランスの恥」――調子の強い見出しが連日続き、警察当局は早い段階で容疑者を立てる必要に迫られたとされます。
ここで意外な人物の名が浮上します。詩人ギヨーム・アポリネールと、当時まだ若かった画家パブロ・ピカソです。きっかけはアポリネールの周辺にいた人物がルーブルから古代彫像を盗み出していた、という別件で、その流れの中で「美術館から物を持ち出す前歴のあるサークル」としてピカソらが疑われました。
アポリネールは数日間にわたって身柄を拘束され、ピカソも参考人として取り調べを受けた、というのが広く知られた経緯です。両者ともモナリザ盗難そのものへの関与は否定され、最終的には不起訴・釈放となりました。とはいえ、20世紀の文学と絵画を代表することになる二人が、警察署で隣の部屋に座らされていた、という光景は、後年さまざまな評伝で繰り返し語られる場面になっています。
このときフランスでは、モナリザは「失われたから一面に載った」のであって、もともと圧倒的に有名な作品だったわけではなかった、とされます。盗難前の絵葉書販売数を見ても、レオナルド作品のなかで突出して売れていたわけではなかった、という指摘もあります。消えたことそのものが、彼女を世界の顔に押し上げていく――そういう順序だった、と言うことができそうです。
4. フィレンツェの画商と、2年越しの帰還
ペルッジャがモナリザを動かしたのは、事件から2年あまり経った1913年の終盤でした。彼はフィレンツェに渡り、ウフィツィ美術館近くの画商アルフレード・ジェリ(Alfredo Geri)に手紙を書きます。手紙の主旨は、「ルーブルから消えた絵を持っている。50万リラで買い取ってほしい」というものだったと伝えられます(金額には諸説があり、当時のリラ換算で見ても巨額だった、とだけは言えそうです)。
ジェリはウフィツィ美術館長ジョヴァンニ・ポッジ(Giovanni Poggi)と相談し、まずは現物を確認すると装ってホテルの一室でペルッジャと面会します。板の裏に残されていたルーブルの台帳番号と封印を確認した両人は、その場ではいったん「鑑定にもう少し時間がほしい」と告げて絵を預かり、すぐ警察に通報したとされます。1913年12月、ペルッジャはフィレンツェで逮捕されました。
ペルッジャは取り調べで、「ナポレオンがイタリアから持ち去った絵を母国に返したかった」と動機を語りました。ただしモナリザがフランスに渡った経緯は、ナポレオンによる略奪ではなく、フランス王フランソワ1世が1518年ごろにレオナルド本人もしくはその後継者から購入したものだったとされ、彼の主張は史実と食い違うものでした。愛国心の演出だったのか、本当に思い違いをしていたのかは、いまも完全には決着していません。
1914年6月、イタリアの裁判所はペルッジャに対し、禁錮1年15日ほどの判決を言い渡しました。実際の収監期間はそれより短く、早期に釈放されたとも言われます。当時のイタリア国内には「彼は犯罪者ではなく愛国者だ」とする声も少なくなかった、というのも、量刑のやわらかさの背景に挙げられることがあります。
絵は、フランスへの返還前に、フィレンツェ・ローマ・ミラノで凱旋展示されました。ウフィツィ、ボルゲーゼ、ブレラ――行く先々で長蛇の列ができ、入場制限がかかりました。そして1914年元日のころ、モナリザは正式にフランスへ返還され、ルーブルの壁に戻りました。
「もしも」の問い
もし、ペルッジャが盗まなかったら――。 モナリザはおそらく、いまでも「レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作のひとつ」ではあったでしょう。けれど、地球の裏側からはるばる本物を見に行く対象として、ガラスの向こうに何重もの警備で守られる「世界の顔」になっていたかどうかは、わかりません。
事件は、二つの逆説を残したと言えます。 ひとつは、盗まれて空白になった壁こそが、その絵の価値を世界に教えた、ということ。誰も知らなかった肖像画が、消えた瞬間に新聞の一面に載り、戻ってきた瞬間に行列ができる存在になりました。 もうひとつは、美術館の警備の発想が、この事件を境に大きく書き換えられた、ということ。月曜午前に作業着の人物が単独で名画を持ち出せた時代は、ここで一度終わります。今日のルーブルでガラスケースと制限線とカメラの群れに囲まれている彼女の姿は、1911年8月21日の白いスモックの背中の、長い反作用なのだ、と言うこともできそうです。
世界一有名な絵は、世界一有名な「不在」を経て、いまの場所に立っています。 彼女が2年4か月、トランクの二重底で何を聞いていたのかは、もちろん誰にもわかりません。
参考・出典
- Musée du Louvre — La Joconde / Mona Lisa — 所蔵者側の公式情報
- Smithsonian Magazine — The Theft That Made the Mona Lisa Famous — 事件の経緯と影響に関する一般向け解説
- Encyclopædia Britannica — Mona Lisa / Vincenzo Peruggia — 人物・年代・量刑に関する基礎事実
