もしも研究所

海賊船「アドベンチャー号」詐欺 キャプテン・キッド ――義賊か犯罪者か、17世紀大西洋の最大の謎

歴史のあやまち · 2026-01-11 · 約2,900字 · 約6分

絞首台の上の船長

1701年5月23日、ロンドンのウォッピングにあるテムズ川沿いの処刑場「エクセキューション・ドック(Execution Dock)」で、ウィリアム・キッド船長が絞首刑に処された。潮が引く位置に設けられたこの刑場は、海事犯罪者を処刑するための場所として知られていた。

処刑に際して皮肉な出来事が起きた。一度目の縄が切れ、キッドはいったん地面に落ちたのだ。群衆の一部は「神の意志のしるしだ」と釈放を叫んだとされるが、聞き入れられず、二度目の縄でようやく処刑が完了した。この縄が切れたのが単なる事故だったのか、それとも何者かの細工だったのかは、その後しばらくロンドンのコーヒーハウスで取り沙汰されたという。

処刑後、彼の遺体はタールを塗られ、テムズ川下流のティルベリー・ポイント(Tilbury Point)で鉄製の檻(ジベット)に入れて吊るされた。およそ3年にわたって朽ちるにまかされたその姿は、川を行き来する船乗りたちへの「海賊の末路」を示す見せしめだった。

「キャプテン・キッド」こと、スコットランド・ダンディー周辺の出身とされるウィリアム・キッドは、歴史上最も有名な「海賊」のひとりだ。しかし彼が本当に「海賊」だったのかどうかは、300年以上にわたって議論が続く問いだ。


私掠船と海賊の境界線

17世紀後半の大西洋・インド洋では、「私掠船(Privateer)」という存在が重要な役割を果たしていた。

私掠船とは、国家から「敵国の船を攻撃する権限」を与えられた民間の武装船だ。「私掠許可状(Letter of Marque)」があれば、敵国の商船を略奪することは合法だった。

ウィリアム・キッドは1695〜96年、イギリス政府から私掠許可状を得て、「海賊およびフランス船の拿捕」を目的として「アドベンチャー・ギャレー号(Adventure Galley)」で出航した。この船は34門の大砲を備え、無風時でも漕いで動けるよう櫂(オール)も装備した排水量およそ280トン超の新造船だった。

注目すべきは、この航海の出資構造だ。費用のおよそ5分の4は、ニューイングランド総督に任じられたベロモント伯(Earl of Bellomont)が取りまとめた当代屈指の有力者たち——オーフォード伯、ロムニー卿、シュルーズベリー公、サー・ジョン・サマーズ(後の大法官)ら——が拠出したとされる。私掠許可状そのものには国王ウィリアム3世が署名したとも伝えられる。つまりキッドの背後には、ホイッグ派の政権中枢に連なる人脈がそびえていた。この「後ろ盾の大きさ」が、後に彼を救うどころか、むしろ切り捨てる側に回るという皮肉を生む。

問題は、「この活動がどこで私掠から海賊に変わるのか」という境界線だ。

この境界線は現代の法律感覚で見ると奇妙に曖昧だ。17世紀の国際法は未発達であり、「誰の旗を持つ船を攻撃していいか」の定義は政治情勢によって変わった。キッドが出航した時点では合法だった行為が、帰国する頃には「海賊行為」として訴追の対象になっているという状況は、当時珍しくなかった。


インド洋での事件

キッドのインド洋での行動は、後に彼が裁判にかけられる主要な根拠となった。

出航直後から、航海は躓きの連続だった。コモロ諸島では病の流行で乗組員の少なからぬ数が命を落とし、新造船は早くも浸水し、肝心の海賊にはマダガスカル沖でほとんど出会えなかった。成果も賞金も出ないまま、乗組員の不満は反乱の一歩手前まで高まっていく。

そうした圧力のなかで、キッドはインド洋でムガル帝国に関わる船を攻撃した。特に問題となったのが、1698年1月のケダ・マーチャント号(Quedagh Merchant)の拿捕だ。この船は実際にはアルメニア人が所有し、イングランド人のライトという人物が船長を務めていたが、フランス東インド会社から発行された「通行証(フランス・パス)」を携えていた。当時の慣行では、敵国フランスの保護下にある船は合法的な拿捕の対象になりえた。キッドはまさにこの通行証を根拠に「合法的な拿捕だ」と主張し、文書を手元に保管した。積荷は絹・モスリン・金銀・宝石などで、当時の価値で7万5,000ポンドにのぼったとも伝えられる。

しかし乗組員の多くはすでに「事実上の海賊行為」に傾いており、帰国の頃にはキッドは「海賊の首領」として指名手配される身になっていた。

さらに重い影を落としたのが、殺人事件だ。1697年10月30日頃、キッドは砲手のウィリアム・ムーア(William Moore)に木製の手桶を投げつけ、頭蓋骨を砕いた。ムーアはその翌日に死亡した。背景には、通りかかったオランダ船を襲うべきかどうかをめぐる口論があったという(オランダ船を襲えば、それこそ海賊行為になりかねなかった)。キッドは「反乱を起こしかけた乗組員を抑えるために必要だった」と主張したが、後の法廷はこれを計画的殺人とみなした。皮肉なことに、キッドはこの殺人罪で起訴されることを、裁判が始まるまで知らされていなかったとも言われる。


裁判の問題点

キッドはニューイングランドで身柄を拘束され、ロンドンへ送られた。1701年5月、彼はオールド・ベイリー(中央刑事裁判所)で、ムーア殺害と複数の海賊行為について裁かれる。

裁判での決定的な問題は、「ケダ・マーチャント号のフランス通行証」が法廷に提出されなかったことだ。この通行証があれば、キッドの主張「合法的な拿捕だった」を裏づけられたはずだった。だが肝心の文書は、彼が必要とした瞬間に「どこにも見当たらなかった」。多くの歴史家は、キッドが弁護のための資金も十分な弁護人も与えられず、不利な証言をしたのは利害関係のある元乗組員ばかりだったと指摘し、この裁判の公正さに疑問を投げかけている。

文書がなぜ法廷に出てこなかったのか——その理由については諸説ある。出資者だったホイッグ派の貴族たちが、自らに累が及ぶスキャンダルを恐れて文書を「紛失」させたとする説が有力だが、単なる事務的な散逸だったとする見方もあり、断定はできない。

興味深いことに、この通行証はその後、英国の公文書のなかから再発見されたと伝えられる。一説には1911年、アメリカの著述家ラルフ・D・ペイン(Ralph D. Paine)が、ロンドンの公記録保管所(Public Record Office)で別の文書に紛れ込んでいたフランス通行証を見つけ出したとされる。もしこれがケダ・マーチャント号の現物であれば、キッドの裁判は「彼の無罪を支える証拠が、その場にありながら使われなかった」という解釈が成り立つことになる。ただし発見の経緯や年代については記録によって食い違いもあり、慎重に受け止める必要がある。


埋蔵金伝説

キャプテン・キッドの名を現在も生き続けさせている最大の要因は、「埋蔵金」の伝説だ。

「キッドがどこかに莫大な財宝を埋めた」という話は、18世紀から流布した。この伝説を題材に、ロバート・ルイス・スティーヴンソンが1883年に『宝島(Treasure Island)』を書いたとも言われる(実際にはこの説の根拠は曖昧で、別の海賊エドワード・ティーチ=「黒ひげ」がモデルという説もある)。

埋蔵金探索は20世紀に入っても続いた。だが伝説のもとには、確かに「実際に埋められ、回収された財宝」が一つだけ存在する。キッドは帰国の途上、ニューヨーク州のガーディナーズ島(Gardiners Island)に、島主ジョン・ガーディナーの許しを得て金銀の入った箱を埋めた。1699年7月、ベロモント伯はこれを掘り出させ、目録を作成した。残された記録によれば、金がおよそ1,100オンス、銀がおよそ2,350オンスのほか、ルビーやダイヤモンドなどの宝石も含まれていたという。皮肉にも、この「埋蔵金」は伝説を生むどころか、キッドを縛る動かぬ証拠として法廷に運ばれた。「インド洋での略奪品のその後」については、現在も謎のままだ。

なぜ「埋蔵金伝説」がこれほど人々を惹きつけるのか。それは「見つかっていない財宝=まだ手が届く」という希望を提供するからだ。実際には財宝がないとしても、「あるかもしれない」という物語の力は強い。18世紀の新聞記事から始まった「キッドの宝」の話は、300年後も探索者を引き寄せている。


「もしも」の視点: 義賊か犯罪者か

キャプテン・キッドの物語が持つ普遍的な魅力の核心は、「誰が海賊を定義するのか」という問いだ。

私掠船と海賊の違いは許可状一枚だった。その許可状の正当性、拿捕した船の国籍証明、乗組員の意向——これらが絡み合う中で、キッドは「海賊」の烙印を押された。

もしもあのフランス通行証が法廷で隠匿も紛失もされず、堂々と提出されていたとしたら——ケダ・マーチャント号の拿捕は「合法な私掠」と認められ、キッドは絞首台を免れていたかもしれない。彼の背後にいたホイッグ派の貴族たちが、保身のために彼を切り捨てるのではなく、約束どおり後ろ盾であり続けていたとしたら、物語はまったく違う色を帯びていただろう。実際、後世の歴史家ロバート・C・リッチーやリチャード・ザックスらは、キッドを「単純な悪党」ではなく、党派政争の駒として使い捨てられた人物として描き直している。

そしてもう一つの「もしも」がある——もしキッドが無名のまま赦され、静かに余生を送っていたら、後世の「埋蔵金伝説」は生まれなかったかもしれない。劇的な裁判と処刑、そして「どこかに財宝が眠っている」という想像こそが、彼の名を不滅にした。ロバート・ルイス・スティーヴンソンが1883年の『宝島(Treasure Island)』を着想する遠い背景にキッド伝説があったとも語られる(もっともこの結びつきの根拠は曖昧で、断定はできない)。皮肉なことに、彼を破滅させた「海賊」という烙印こそが、彼を物語の住人として生き永らえさせたのだ。

歴史において、「誰が犯罪者と定義されるか」は、しばしば権力者の都合で決まる。キャプテン・キッドの話は、その最もドラマチックな例のひとつかもしれない。私掠と海賊を分けたのは、たった一枚の紙切れと、その紙切れを握っていた者たちの都合だった——そう考えると、絞首台の上で縄が二度かけられた船長の影は、いまも少し長く伸びているように見える。


本稿の史実部分は、ロバート・C・リッチー著 Captain Kidd and the War Against the Pirates(Harvard University Press, 1986)、リチャード・ザックス著 The Pirate Hunter: The True Story of Captain Kidd(2002)等をもとに構成しています。


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