もしも研究所

ショパン パリでの結核死 39歳の沈黙

歴史のあやまち · 2026-06-27 · 約1,553字 · 約3分

1849年10月17日午前2時頃、パリ・ヴァンドーム広場12番地。

一人の作曲家が39歳の生涯を閉じたと記録されています。 身長170cmほど、体重は最後の数か月で40kg前後まで落ちていたと言われます。 名はフレデリック・ショパン。 祖国ポーランドを離れて18年、フランスで活動を続けたピアニスト・作曲家でした。

死因は、19世紀の死亡診断書では「結核(肺癆)」と記録されています。 ただ、近年の医学史研究では「本当に結核だったのか」という問いが、繰り返し蒸し返されているテーマでもあります。

1. ワルシャワからパリへ

ショパンは1810年、ポーランド中部の村ジェラゾヴァ・ヴォラに生まれました。 父はフランス系の家庭教師、母はポーランド貴族の縁戚にあたる人物です。

幼少期から音楽の才能を示し、7歳でポロネーズを作曲、8歳で公演舞台に立ったと伝えられます。 10代後半にはワルシャワ音楽院で学び、すでにヨーロッパ各地から注目される存在になっていました。

1830年、20歳のショパンは演奏旅行でワルシャワを発ちます。 直後の11月、ポーランドでロシア帝国に対する反乱(11月蜂起)が勃発。 反乱は翌年に鎮圧され、ショパンの祖国は事実上ロシアの統治下に置かれました。

——彼はもう、故郷に戻らないことを選びます。 1831年9月、彼はパリに到着しました。 このとき21歳。 以後の18年間、彼はフランスを拠点として、ポーランドに対する亡命的な距離感を保ち続けることになります。

2. パリ社交界とジョルジュ・サンド

パリでのショパンは、すぐに上流社交界の寵児となりました。 彼は大規模なコンサートホールでの公演をあまり好まず、貴族のサロンでの小規模演奏を中心に活動したとされます。 レッスン料・楽譜の出版料・パトロンからの援助——これらを組み合わせて、彼は経済的には(芸術家としては)恵まれた生活を送りました。

そして1836年、26歳のとき、彼は作家 ジョルジュ・サンド(本名アマンディーヌ・デュパン、当時32歳)と出会います。 サンドは男装で社交界に出入りし、葉巻を吸い、すでに別居中の夫がいる——19世紀の標準からは大きく外れた女性でした。

二人の関係は1838年から 約9年 続いたとされます。 スペインのマヨルカ島で過ごした冬、サンドの邸宅ノアン荘で過ごした夏——この時期はショパンの作曲活動の最盛期と重なります。 24の前奏曲、ピアノソナタ第2番(葬送行進曲つき)、バラード第3番、英雄ポロネーズなど、現在「ショパンといえば」で挙がる代表作の多くが、この期間に書かれたか、ここで完成されています。

ただ、二人の関係は1847年に 決裂 しました。 理由については、サンドの娘ソランジュをめぐる家族間のトラブルが直接の引き金とされます。 別離の数か月後、ショパンの結核は明確に進行を始めた、と複数の伝記が記録しています。

3. ロンドン公演と最後の年

1848年、革命の年。 パリでも2月革命が起こり、社交界の気配は一変します。 ショパンの収入源だったサロン演奏も、貴族たちの亡命や経済的逼迫によって細っていきました。

同年4月、ショパンはイギリス・スコットランドへの演奏旅行に出発します。 ロンドンでは女王ヴィクトリアの前で演奏したと記録されていますが、体調はすでに極めて悪く、階段を上るのに付き添いを必要としたとされます。 スコットランドの霧と寒さは、結核患者にとって致命的な環境でした。

11月、ショパンはパリに戻ります。 このときすでに、自力で歩くことすら困難だったと、看病に当たった姉ルドヴィカが書き残しています。

1849年、彼は最後の数か月をパリで過ごしました。 姉のルドヴィカがワルシャワから駆けつけ、献身的に看病します。

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