もしも研究所

諸葛亮は「過労死」だったのか

最期のページ · 2026-07-11 · 約2,900字 · 約6分

結論を先に:史料が記録していること・していないこと

この記事では、まず一次史料が実際に何を書いているかを確認し、そこに現代日本の過労死ラインを大真面目に重ねてみます。ついでに、誰もが知る四字熟語「食少事煩」が、じつは正史ではなく小説由来だという、出典のねじれもほどいておきます。


1. 実際に起きたこと(史実の確認)

諸葛亮は光和4年(181年)に生まれ、劉備の三顧の礼に応じて蜀漢政権の中枢を担いました。221年に劉備が帝位につき、223年に劉備が病没すると、幼い後主・劉禅を輔けて国政をひとりで総攬します。

建興5年(227年)、彼は北伐を決意し、後主に「出師表」を奉りました(この名文は『三国志』蜀書・諸葛亮伝に全文が収められています)。以後、前後数次にわたって魏へ攻め込みますが、いずれも決定打を欠いたまま推移します。

そして建興12年(234年)、第五次北伐。五丈原で司馬懿と対陣したまま、8月、陣中で病に倒れて没しました。享年54。『三国志』は死因を具体的な病名では記していません。ただ、その最期の労働の実態を、敵側の記録が思いがけず克明に残していました。

2. 司馬懿が尋ねたのは「兵力」ではなく「食事と決裁」だった

五丈原の対陣中、諸葛亮は司馬懿のもとへ何度も使者を送っていました。その使者に対し、司馬懿は戦況ではなく、孔明の日常を尋ねます。

『晋書』宣帝紀は、この問答をこう記録しています。

先是、亮使至、帝(司馬懿)問曰、諸葛公起居何如、食可幾米。對曰、三四升。次問政事、曰、二十罰已上皆自省覽。帝既而告人曰、諸葛孔明其能久乎。竟如其言。

現代語に直すと——司馬懿は「諸葛公のご様子はどうか、食事はどれほど召し上がるのか」と問い、使者は「一日に三、四升ほど」と答えた。次に政務のことを問うと、「むち打ち二十回以上の罰は、すべてご自分で目を通されます」と答えた。司馬懿はこれを聞いて「諸葛孔明は、そう長くは保つまい」と人に語り、はたしてその通りになった——。

裴松之が『三国志』諸葛亮伝の注に引く『魏氏春秋』は、ほぼ同じ場面を、使者の言葉として「夙(つと)に興(お)き夜(よ)に寐(い)ね、罰二十以上は皆親(みずか)ら覽(み)、啖(く)らう所の食は数升に至らず」と伝え、司馬懿の判定を「亮将(まさ)に死せんとす」と記します。朝は誰より早く起き、夜は誰より遅く眠り、罰則の決裁を部下に委ねず、食は細る一方。二つの史料が別々の言い回しで、同じ働き方を描いているわけです。

司馬懿がここで読み取ったのは、兵力でも陣形でもありません。一人の人間が処理できる仕事量には上限があるという、きわめて散文的な事実でした。敵将の栄養状態と決裁の抱え込みだけで余命を見切ったこの逸話は、軍略というより、現代の産業医の視点にそのまま重なります。

3. 「食少事煩」は、じつは正史の言葉ではない

ここで、出典のねじれを一つほどいておきます。

諸葛亮の働きすぎを語るとき、決まって引かれる四字熟語が「食少事煩(食少なく事煩わし)」です。司馬懿の名台詞として広く知られていますが——この四字の形は、正史『三国志』にも『晋書』にも見当たりません。「孔明、食少なく事煩わし、其れ能く久しからんや」という形で司馬懿に言わせているのは、14世紀の歴史小説『三国演義』第百三回です。

正史が伝えるのは、あくまで前節の具体的な数字と手続き——「食は三、四升」「罰二十以上は皆自ら省覽す」——であって、それを「食少事煩」という切れ味のいい四字にまとめ上げたのは、後世の物語作者の編集の手でした。中身が捏造なのではありません。使者の証言という一次史料の芯は正史にある。ただ、私たちが暗記している四字の看板だけは、史書ではなく小説から借りている。歴史上の名言には、しばしばこの種の二重底があります。

4. 234年の陣幕に、現代の「過労死ライン」を当ててみる

では、ここからが本題の思考実験です。司馬懿が見抜いた孔明の働き方を、現代日本の基準で測るとどうなるか。

厚生労働省の「脳・心臓疾患の労災認定基準」(2021年9月改正)は、いわゆる過労死ラインを、こう定めています——発症前1か月におおむね100時間、または発症前2か月ないし6か月にわたって1か月あたり80時間を超える時間外労働があれば、業務と発症の関連性が強い、と。

孔明の労働時間を分単位で復元することは、史料上できません(そこを創作で埋めれば、それこそ司馬懿に笑われる)。できるのは、記録された働き方の質を、この基準の言葉で読み直すことだけです。

厚労省の基準が労働時間の「量」で線を引くのに対し、234年の記録に残っているのは「委譲の欠如」というです。しかし司馬懿の見立ては、両者が同じ崖に向かうことを、1800年前に言い当てていました。過労死ラインが労働時間で測ろうとしている危険の正体は、突き詰めれば「一人に決裁が集中し、休息と栄養が削られる」構造そのものだからです。

5. もし蜀漢に「決裁の分掌」があったら——それでも孔明は委ねなかった

最後に、反実仮想を一つだけ立てます。もし234年の蜀漢に、決裁を分ける仕組み——現代でいう権限移譲や労務管理の発想——があったなら、孔明は五丈原で倒れずに済んだのでしょうか。

答えは、たぶん「否」です。そしてその「否」に、この人の本当のむずかしさがあります。

蜀漢は、魏に対して国力で大きく劣る小国でした。人材の層は薄く、後年「蜀中に大将なく、廖化が先鋒を務む」と揶揄されるほど、任せられる有能な部下が枯れていく組織です。孔明が罰二十以上を一件ずつ決裁したのは、単なる完璧主義や心配性ではなく、委ねられる相手がいない小国の統治者が、品質を落とさずに延命するための合理だった側面がある。かつて彼は、街亭で信頼して先鋒を任せた馬謖に大敗を喫してもいます。任せることの代償を、彼は身をもって知っていました。

だとすれば、孔明の過重労働は、死を早めた原因であると同時に、劣勢の蜀漢を保たせた延命装置でもあった、という逆説にたどり着きます。決裁を分掌していれば、彼は数年長く生きたかもしれない。しかしその数年、蜀漢という国が同じ精度で回り続けた保証は、どこにもありません。彼は自分の寿命を燃料にして、国の寿命を買っていた——司馬懿が見抜いたのは、その燃料計が底を突きかけている、という一点だったのだと思います。

働きすぎは、多くの場合ただの管理の失敗です。けれど孔明の場合だけは、それが劣勢を覆すための、意識的で悲壮な戦術でもあった。過労死ラインの物差しを当ててなお割り切れずに残るのは、その一点です。

この題材をもう少し深掘りする

一次史料の手触りは、原典に当たると一気に変わります。陳寿の正史と、それを膨らませた小説を読み比べると、「食少事煩」という看板がどこで付け替えられたかが見えてきます。


🌀 もしも、司馬懿が使者に「兵力」を尋ねていたら?

彼は孔明の余命を読み違え、五丈原の対陣はもっと長引いたかもしれません。司馬懿の勝ちは、戦場ではなく、敵の食事量と決裁量を尋ねるという発想の中にありました。相手が倒れるのを待つ——その待ち方の精度が、この対陣の勝敗を分けています。歴史上もっとも有名な過労の記録は、看取った側ではなく、それを利用した敵将の観察として残った、という点でも、少し変わった最期のページです。


主な参照

本記事は note では公開していない、The IF Lab サイト独占コラムです。

この記事をシェア

𝕏💬 LINE📑 はてB
SPONSORED
Amazon (もしもアフィリエイト)
SPONSORED
楽天ひかり楽天カード
SPONSORED
アソビュー(遊び・体験予約)ハリー・ポッター