もしも研究所

キケロ カエタの追跡死 ――「共和国最後の声」は誰に消されたか

歴史のあやまち · 2026-01-01 · 約3,700字 · 約9分

駕籠の中の哲学者

紀元前43年12月7日、南イタリアのカエタ(現在のガエータ)近郊の道で、一台の駕籠が止まった。

中にいたのはマルクス・トゥッリウス・キケロ、63歳。かつてローマ共和政の守護者として讃えられ、「国父(パーテル・パトリアエ)」の称号を与えられた弁論家・政治家・哲学者だ。しかしこのとき彼は逃亡中だった。マルクス・アントニウスの命令で差し向けられた殺し屋たちに追われていた。

キケロを追っていたのは、百人隊長ヘレンニウスと軍事護民官ガイウス・ポピリウス・ラエナスだった。プルタルコスが伝えるところでは、隠れ場所を密告したのは弟クィントゥスの解放奴隷ピロロゴスだったという。キケロ自身の従者たちは「主人を見ていない」と言い張ったが、その口封じは長くは続かなかった。

キケロは駕籠の幕を引き上げ、追手の顔を見た。

プルタルコスによれば、彼は抵抗するそぶりも見せず、剣闘士が首を差し出すように駕籠から首を伸ばして突き出したという。観念した者の所作だった。

「正しいことは何もない。しかし少なくとも、この首を正確に切り落としなさい」

そう言ったとも伝えられる。これも後世の創作である可能性は否定できないが、この場面は彼の最期の「型」として歴史に刻まれた。

ヘレンニウスはまず首を切り落とした。そしてアントニウスの指示により、さらに右手(あの『フィリッピカエ』をしたためた手)をも切り落とした。プルタルコスの伝えるところでは、両方を切り落とさせたとも言う。その首と手はローマのフォロ・ロマヌムの演壇(ロストラ)に釘で打ちつけて晒された。キケロは、第二回三頭政治の追放令(プロスクリプティオ)の犠牲者のなかで、このように見せしめにされた唯一の人物だったと伝えられる。

カッシウス・ディオによれば、アントニウスの妻フルウィアは晒されたキケロの首を取り、舌を引き出して、髪留めのかんざしで何度も突き刺した——あの雄弁への意趣返しに、というのである。ただしこのかんざしの逸話は後代の著述家が伝えるもので、史実性は限定的だと見られている。


共和政の最後の守護者

キケロが活躍した紀元前1世紀のローマは、共和政から帝政への移行期という激動の時代だった。

キケロは紀元前106年、アルピヌム(現在のアルピーノ)の地方の家に生まれた。騎士(エクィテス)階級の出身で、元老院貴族の血筋ではなかった彼が、純粋な弁論の才能と知的な努力によって最高官職たるコンスル(執政官)にまで上り詰めたのは紀元前63年のことだ。家系の後ろ盾なしに最高位へ到達した者は「ノウス・ホモ(新参者)」と呼ばれ、キケロはその代表格として知られる。

この年、彼はカティリナの陰謀を摘発し、共謀者たちを裁判を経ずに処刑するという強硬手段によって鎮圧した。処刑された共謀者のなかには、プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラがいた。後年キケロを激しく憎むことになるアントニウスにとって、レントゥルスは継父にあたる。カティリナ事件の強硬処置は弁論家としての名声を高めると同時に、私的な遺恨の種をも蒔いていたことになる。この処置は、後に彼の命取りにもつながっていく。

ユリウス・カエサルとの関係は複雑だった。キケロはカエサルの政治力を認めながらも、その独裁的傾向を危惧していた。カエサルが暗殺された紀元前44年3月、キケロはその場に居合わせなかったが、事後的に暗殺者ブルトゥスとカッシウスを支持した。


フィリッピカエ演説という賭け

カエサル暗殺後の権力闘争で、アントニウスが台頭してくると、キケロは筆と口で対抗することを選んだ。

彼が行ったのが「フィリッピカエ(Philippicae)」演説だ。紀元前44年から43年にかけて、計14篇の演説・文書でアントニウスを徹底的に批判した。タイトルはギリシャの弁論家デモステネスがマケドニアのフィリッポス2世を批判した一連の演説に倣ったもので、キケロが自分の立場を意識的にデモステネスと重ねていたことが分かる。共和政の自由を脅かす者に弁論で立ち向かう——その図式を、彼は数百年前の先達から借りてきた。

第二フィリッピカは特に有名で、アントニウスを「共和政の敵」として全人格的に攻撃した。実際にはこの第二篇は元老院で口頭では読み上げられず、文書として流布されたパンフレットだったと考えられている。それでも、これほど激しい政治的弾劾は古代ローマの歴史でも珍しい。

しかしこの賭けは失敗した。オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)がアントニウス、レピドゥスと手を結んで第二回三頭政治を結成すると、力学は一変する。三頭政治は紀元前43年11月27日、正式な法によって五年任期の権限として制定された。三人はそれぞれ仇敵の名を持ち寄り、互いの身内すら取引の材料にした。かつてキケロを高く買っていたとされるオクタウィアヌスも、アントニウスの要求の前にキケロの抹殺を黙認したと伝えられる。こうしてキケロの名は、政敵を合法的に抹殺する粛清リスト(プロスクリプティオ)に書き込まれた。


三頭政治と粛清

第二回三頭政治のプロスクリプティオは、政敵の財産没収と処刑を法的に認める制度だった。アッピアノスやプルタルコスの伝えるところでは、リストに載せられた者は元老院議員だけでも数百人、騎士階級を含めれば数千人規模に及んだという(数字は史料により幅がある)。密告には褒賞が、犠牲者を匿った者には罰が定められ、社会の信頼そのものが武器に変えられた。キケロの名前がリストに載ることが確実になると、彼は逃亡を試みた。

そしてこの粛清はキケロ一人にとどまらなかった。弟クィントゥス・トゥッリウス・キケロと、その息子クィントゥス(甥)もまた追放令の犠牲となった。カッシウス・ディオによれば、甥は拷問を受けても父の隠れ場所を明かさず、それを聞いた父クィントゥスは息子を救おうと自ら名乗り出て、結局二人とも殺されたという。一族を巻き込む報復だった。

なぜ早めに逃げなかったのか。後世の歴史家はしばしばこの問いを立てる。彼は一度は脱出の準備を整えながら、海が荒れたこともあり、途中で引き返したとも伝わる。老いと疲弊、故郷への未練、そして「もしかしたら生き延びられるかもしれない」という希望が彼を躊躇させたのかもしれない。

結局、追手が迫り、カエタ近郊の道で追いつかれた。


もしもキケロが生き延びていたとしたら

もしキケロがギリシャへの脱出に成功し、その後十年間を著述に費やせていたとしたら、何が残っていたか。

彼はすでに膨大な著作を残していた。弁論術の教科書として後世に絶大な影響を与えた『弁論家について(De Oratore)』、政治哲学書『国家について(De Re Publica)』、倫理学書『義務について(De Officiis)』——これらは西洋思想の基礎文献として今も読まれている。とりわけ『義務について』は、死の前年にあたる紀元前44年の秋、わずか数週間で書き上げられたと考えられている。最期の年の彼は、政治の戦場から退いた合間を縫って、息子に宛てた道徳論を猛烈な勢いで書き継いでいたのだ。もし十年の猶予があれば、同じ筆力でどれほどの著作が積み上がっていたか。

彼の書簡集、特に親友アッティクスへの私信が後世に伝わったことで、ローマの政治の内側が異例なほど詳細に残ることになった。誰に宛てたかも知れぬ手紙のなかで、彼は迷い、怒り、虚勢を張り、後悔した。装われていない肉声がそのまま残っているという点で、これは古代世界でも稀な記録だ。もし生き延びてさらに書き続けていたなら、共和政から帝政への移行を内側から見つめた一次資料としての価値は計り知れない。

もう一方の「もしも」もある。もしキケロが早い段階でアントニウスとの妥協を選び、沈黙して生き延びていたとしたら? この問いは、後世の人々にとってもよほど切実だったらしい。一世代のちのローマでは、修辞学校の演習題として「キケロは命を助ける見返りに自著を焼くべきか」という想定が真剣に議論された。大セネカが『説得演習(Suasoriae)』に書きとめたこの論題は、まさに「言論か、生存か」という究極の選択を、若い弁論家たちに突きつけるものだった。

仮に彼がフィリッピカエを書かず、筆を折っていれば、命は助かったかもしれない。だが残るのは、書くべきことを書かなかった弁論家という空洞だったろう。沈黙して生き延びたキケロの著作を、後世が同じ敬意で読んだとは思えない。彼が選んだのは、自分の信念に従って戦い、その結果として死ぬことだった。そして皮肉にも、その死こそが彼の言葉を不滅にした。


言葉が武器だった人の最期

フォロ・ロマヌムのロストラに晒された首と手。それはアントニウスへの政治的勝利の演出だったと同時に、「言葉の人」キケロへの象徴的な報復でもあった。

演壇から民衆に語りかけた口と手を切り落として晒す——これ以上ない政治的メッセージだ。

しかしその後の歴史は逆転した。アントニウスは紀元前30年にクレオパトラとともに自害し、キケロを粛清リストに載せたオクタウィアヌスは後に「アウグストゥス」として帝政を開始する。そしてキケロの著作は滅びず、ラテン散文の模範として、中世・ルネサンスを通じて読み継がれた。

その不滅ぶりは具体的な事実にも刻まれている。グーテンベルクが活版印刷を発明したのち、聖書、ドナトゥスの文法書に続いて三番目に印刷された書物は、キケロの『義務について』だったと伝えられる。手書きの時代から数えれば、印刷以前にも七百近い写本が現存するという。さらに紀元1345年、人文主義者ペトラルカが北イタリアのヴェローナの図書館でキケロのアッティクス宛書簡を発見した出来事は、しばしばルネサンス人文主義の出発点の一つとして語られる。キケロを殺した政治体制はとうに滅び、彼の言葉だけが千年を越えて新しい時代の火種になった。エラスムスもモンテーニュも、キケロの文章から多くを学んでいる。

手を切り落とすことは、書かれたものを消すことではなかった。首を晒すことは、語られたことを黙らせることではなかった。アントニウスがロストラに掲げたのは、勝利の証であると同時に、言葉が肉体を越えて生き残ることの、皮肉な証明でもあったのだ。


本稿の史実部分は、プルタルコス『英雄伝(対比列伝)』(キケロ伝)、カッシウス・ディオ『ローマ史』、アッピアノス『内乱記(ローマ史)』、大セネカ『説得演習(Suasoriae)』、およびエリザベス・ロースン著 Cicero: A Turbulent Life 等をもとに構成しています。古代の逸話には伝承に由来するものが含まれ、諸説があります。


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