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電流戦争 エジソンが直流に賭けた特許

歴史のあやまち · 2026-06-19 · 約1,536字 · 約3分

私たちが家庭のコンセントから受け取っている電気は、交流(AC) です。 ところが、その方式が世界の標準になるまでには、ある発明王と、ある事業家の、約10年にわたる泥仕合があった、と言われます。

「電流戦争」(War of the Currents)——技術史の教科書では、わりと有名な事件ですが、特許戦略の話としても、なかなか味のある一幕です。

1. メンロパークの直流帝国

トーマス・エジソン(1847年生まれ)は、1879年に実用的な白熱電球の特許を取得したと記録されています。 ただ、電球を売るだけでは商売になりません。電球を光らせるためには、家庭まで電気を届ける 発電・送電システム がセットで必要でした。

エジソンが選んだのは 直流(DC、Direct Current) 方式です。 1882年、ニューヨーク・マンハッタンの パール街発電所 を稼働させ、約60世帯への配電を開始したといわれます。 これは商業電力供給の事実上の起点として、しばしば語られる出来事です。

エジソンは直流送電に関する数百件の特許を取得しており、配電網ビジネスの 垂直統合 を狙っていたとされます。 発電機、配電盤、ヒューズ、電球、メーター——電気にまつわるあらゆる要素を「エジソン製」で固める戦略です。

ただ、直流方式には、最初から致命的な弱点が知られていました。 電圧を簡単に変換できないのです。 そのため、電圧を下げて家庭で使うには、発電所のすぐ近くまで送電線を引き込まなければなりませんでした。 パール街の発電所がカバーできた範囲は、半径わずか 約1.6キロメートル だったといわれます。

ニューヨーク全域を直流で覆おうとすれば、何百もの発電所を市街地に分散して建てる必要がありました。 コストも、土地確保も、現実的とは言いにくい設計だったわけです。

2. ウェスティングハウスとテスラの交流陣営

その弱点を突く形で登場したのが、ジョージ・ウェスティングハウス(1846年生まれ)でした。 鉄道用エアブレーキで成功した実業家です。

ウェスティングハウスが目をつけたのは、交流(AC、Alternating Current) 方式でした。 交流の最大の利点は、変圧器(トランス) で電圧を自在に変えられることでした。 発電所から高電圧で長距離送電し、家庭の手前で低電圧に落とす——これなら、ひとつの発電所で広範囲をカバーできます。

ただ、当時の交流方式には、実用化を阻む技術課題が複数残っていたといわれます。 特に「交流モーター」の効率的な設計が確立しておらず、産業用途では直流に分があるとされていました。

そこに加わったのが、ニコラ・テスラ(1856年生まれ)です。 セルビア系の移民技術者で、もともとはエジソンの会社で働いていたとも伝えられますが、待遇をめぐって決裂したという逸話が残っています。 テスラは1887〜1888年にかけて、多相交流(polyphase AC) とそれを駆動する 誘導モーター に関する一連の特許を取得しました。 ウェスティングハウスはこれらの特許を 約6万ドル + 1馬力あたりロイヤルティ で買い取ったとされ、交流陣営は技術的に直流陣営に追いつき、追い越す体勢を整えます。

技術の天秤は、徐々に交流側に傾いていきました。

3. プロパガンダとしての「電気椅子」

劣勢に立たされたエジソンは、技術競争では勝てないと判断したのか、別の戦線を開いたといわれます。 「交流は危険である」というプロパガンダ戦 です。

1887年〜1888年にかけて、エジソンの研究所では、交流電源を使った動物の感電実験が公開で行われた、と複数の資料が伝えています。

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