もしも研究所

ナポレオンとジョセフィン 帝位より重い手紙の話

歴史のあやまち · 2026-07-04 · 約3,768字 · 約7分

これは、ヨーロッパの版図を塗り替えた男が、一人の年上の女性に振り回されつづけた、という話です。 皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)と、彼の最初の妻 ジョセフィン・ド・ボアルネ。 政略結婚で始まり、世継ぎのために離縁され、それでも最後まで手紙のやり取りが続いた、と言われます。

1. 寡婦と若き准将の出会い

ジョセフィン——本名マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリーは、1763年6月、カリブ海のマルティニーク島で生まれました。 16歳でフランス貴族 ボアルネ子爵アレクサンドル と結婚しますが、フランス革命の恐怖政治期、夫はギロチンで処刑されます。 ジョセフィン自身も同じ監獄に収監され、処刑寸前で恐怖政治の終結(テルミドールのクーデター)に救われました。

寡婦として2人の子(オルタンスとウジェーヌ)を抱えた彼女は、革命後の社交界で注目を集めます。 パリのサロン文化の中心人物の一人、当時の有力政治家ポール・バラスの愛人——というのが、1795年頃の彼女の立ち位置でした。

そこへ現れたのが、6歳年下の青年准将 ナポレオン・ボナパルト です。 コルシカ島出身、当時26歳。 ヴァンデミエール13日(1795年10月)に王党派の蜂起を鎮圧して頭角を現したばかり——という、まだ「地方出身の野心ある軍人」程度の存在でした。

二人の出会いの場面については諸説あります。 バラスのサロンで紹介されたという説、ナポレオンが武器引き渡しの件でジョセフィンの息子ウジェーヌに会ったのがきっかけ、という説。 いずれにせよ、ナポレオンはこの年上の寡婦に強く惹かれ、わずか数か月後の1796年3月9日、二人は民事婚で結ばれます。

そして結婚の2日後、ナポレオンは イタリア遠征軍司令官 としてパリを発ちました。 新妻と引き離されてすぐの戦場——ここから、後世に残る大量の手紙が書かれ始めます。

2. 「ジョゼフィーヌへ」の手紙

イタリア戦線からナポレオンがジョセフィンに送った手紙は、現存するだけでも70通以上あるとされます。 ただ、研究者の間では「原本」と「後世の写本」の判別が難しい書簡もかなりあると言われており、総数の数え方は割れているようです。 それでも、おおよその温度感は伝わってきます。

「君のことを考えると、まともに眠れない」 「君の手紙が一日来ないだけで、何かの罰を受けたような気がする」 「君が他の誰かを見ているのではないかと、夜中に何度も目が覚める」

——率直に言って、皇帝になる前のこの時期のナポレオンの手紙は、戦況報告より自分の嫉妬の話のほうが多い、と言われています。

ところがジョセフィン側の返信は、明らかに温度が低かった、と伝えられます。 当時パリでは、彼女が騎兵将校イポリット・シャルルと親密な関係にある——という噂が流れていました。 ナポレオンの周囲もこの噂を耳にし、エジプト遠征中のナポレオンに伝えたとされます。 彼は激怒し、一時は離婚を真剣に検討した、と弟リュシアン宛の手紙に書き残しています。

それでも、エジプトから戻った1799年10月、ジョセフィンが涙ながらに迎え入れた——という有名な場面で、二人は和解しました。 ここから関係の主導権が、ジョセフィンからナポレオンへと逆転していった、というのが多くの伝記の見立てです。

3. 皇帝と皇后

1799年11月、ナポレオンはブリュメール18日のクーデターで第一統領となり、1804年12月2日、 皇帝ナポレオン1世 として戴冠します。 ノートルダム大聖堂での戴冠式は、ジャック=ルイ・ダヴィッドの大作絵画でも知られる場面です。 あの絵で、ナポレオンが自ら王冠をかぶった後、 跪くジョセフィンに王冠を授ける ——あのシーンは、史実としてもほぼその通りに行われた、と伝えられます。

寡婦としてマルティニークから来た女性が、ヨーロッパ大陸を支配する皇帝の手から皇后の冠を受ける——というこの落差は、当時の宮廷でも相当な見ものだったはずです。

ただ。

この時点で、皇后ジョセフィンには大きな問題がありました。 彼女はすでに41歳。 ナポレオンとの間には子が生まれていませんでした。 前夫との間に2人産んでいるので、不妊の原因は彼女側というより加齢の問題と考えられましたが、結果として 皇統の継承者を産めない皇后 という事実は変わりません。

帝政を「世襲王朝」として確立しようとするナポレオンにとって、これは政治的な致命傷でした。 彼の周囲は次第に、離婚と再婚を進言するようになります。

4. 離婚という決断

1809年、ナポレオンはついに決断します。 ジョセフィンとの離婚と、ハプスブルク家のオーストリア大公女 マリー・ルイーズ との再婚です。

ロシア皇帝の妹アンナとの縁談も並行して検討されていましたが、ロシア側の対応が遅く、対オーストリア戦に勝利した直後ということもあり、ハプスブルク家との縁組のほうが現実的でした。

離婚の宣告は、1809年12月、テュイルリー宮殿で行われました。 ジョセフィンは泣き崩れたと伝えられます。 ナポレオンも、執務室で側近に「私が皇帝でなければ、こんな選択はしなかった」と漏らした、という記述が後の回想録に残されています。

ただし離婚後も、ジョセフィンには「皇后」の称号と、マルメゾン城、巨額の年金が与えられました。 そして驚くべきことに、 ナポレオンとジョセフィンの手紙のやり取りは、その後も続いた とされます。 新皇后マリー・ルイーズには気を遣いつつ、ナポレオンはマルメゾン城のジョセフィンを何度も訪ねた、という記録も残っています。

(編集部としては正直なところ、この「離婚後も手紙が続いた」というくだりが、本当のロマンスだったのか、それとも政治的儀礼だったのかは判断がつきません。両方の要素があった、というのがいちばん近いのかもしれません)

1810年3月、マリー・ルイーズはナポレオンとの間に長男ナポレオン2世(ライヒシュタット公)を産みます。 ナポレオンはようやく念願の後継者を得ましたが——そのわずか4年後、彼自身が没落への道を歩み始めます。

5. エルバ島と、最後の春

1814年3月、ロシア・プロイセン・オーストリア連合軍がパリに入城し、ナポレオンは退位を余儀なくされます。 彼は地中海のエルバ島へ流される直前、フォンテーヌブロー宮殿でこう書き残したと伝えられます。

「ジョゼフィーヌ、私の友よ。 君は私の幸福のもっとも大きな部分だった。」

その手紙が届く頃には、ジョセフィンはすでに健康を害していました。 ロシア皇帝アレクサンドル1世がマルメゾン城を訪問した直後、彼女は風邪をこじらせ、1814年5月29日に没します。 享年50歳。

ナポレオン自身がこの訃報を受けたのは、エルバ島でのことでした。 側近の回想によれば、彼は2日間部屋に閉じこもり、誰とも口をきかなかった、とされます。

1815年、エルバ島を脱出してパリに戻った彼が、わずかな自由時間に最初に向かった先のひとつが、マルメゾン城のジョセフィンの寝室だった——という逸話も残ります。 そしてセントヘレナ島で最期を迎える1821年5月、彼の最後の言葉は「フランス、軍隊、軍隊長、ジョゼフィーヌ」だった、と従者ベルトラン将軍は記録しました。 (なお、この「最後の言葉」については複数の証言があり、すべてが一致しているわけではありません)

6. 政略と感情のあいだに

ナポレオンとジョセフィンの関係は、二つの相反する側面を抱えていました。

政治的に見れば、ジョセフィンは 共和派の有力者バラスの旧愛人——という、駆け出しのコルシカ人将校にとって極めて有利なコネクションでした。 ナポレオンが軍内部で出世し、統領、皇帝へと駆け上がっていく初期段階で、彼女のパリ社交界での人脈は確実に役立ったとされます。

感情的に見れば、6歳上の洗練されたパリのサロン女性に、地方出身の若い軍人が一方的に夢中になった——という構図がまずあり、皇帝になってから主導権が逆転した、という流れが見えてきます。

そして、子が生まれなかったことが、二人を最終的に引き離しました。 「世襲王朝の確立」という政治目標と、「最初の妻と生涯添い遂げる」という個人的願望が両立しなかった——というのが、この物語の核にある選択の難しさです。

ナポレオンは公的な必要を選び、私的な絆を切りました。 ただ、切りきれなかった部分が、その後の手紙と訪問と、エルバ島での沈黙に滲んでいるように見えます。

(編集部の迷いとして書いておくと、この種の物語を「結局は政略結婚だった」と片付けるのも、「真実の愛だった」とロマン化するのも、たぶんどちらも半分しか当たっていないのだろうと感じます。手紙が残りすぎているせいで、本人たちの感情の起伏が透けて見えすぎる——それが、この夫婦の厄介なところです)

「公的な役割のために、いちばん大事な関係を犠牲にできるか」という問いは、現代の私たちにも別の形で残り続けています。 ナポレオンの場合、その犠牲は王朝を生まず、その王朝は彼自身の没落で消えました。 何のために何を切ったのか、後から振り返ると、その輪郭は思ったよりも曖昧です。


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