もしも研究所

バイロン卿とオーガスタ 異母姉との「疑惑」――何が史料に残り、どこからが係争中なのか

歴史のあやまち · 2026-02-06 · 約6,500字 · 約13分

「かつて愛した人の目の中に、私の目のすべてがあった」——バイロンの心境を伝えるものとして、こんな言葉が引かれることがあります。その「かつて愛した人」が誰を指すのか。二百年ものあいだ、そこに一人の女性の名前が重ねられ続けてきました。異母姉、オーガスタ・リー。この記事は、二人の物語を情感たっぷりに語る前に、まずどこまでが史料に残った事実で、どこからが今も係争中の疑惑なのかを、層に分けて置き直すところから始めます。

結論を先に:確かなこと・係争中のこと


オーガスタ・リーという人物

バイロンの父は、放蕩で知られた海軍軍人ジョン・バイロン、通称「マッド・ジャック」でした。彼には二度の結婚があり、最初の妻とのあいだに生まれたのがオーガスタ・メアリー(1783年1月26日生)、二度目の妻キャサリン・ゴードンとのあいだに生まれたのが詩人バイロン(1788年1月22日生)です。つまり二人は父を同じくし、母を異にする異母姉弟。年齢はオーガスタが五つ上でした。

母親が違い、父も早くに家を離れたため、姉弟は同じ屋根の下で育っていません。バイロンが姉と初めて顔を合わせたのはハーロー校時代とされ、それも稀にしか会わない関係でした。二人が近づくのは、文通を通してです。史料は、1804年頃からオーガスタが弟に手紙を書き始め、やがて母との諍いの相談相手・心の拠り所になっていったことを伝えます。「幼なじみの姉弟」ではなく、成人してから手紙で結ばれた姉弟——この出会い方が、後の関係を理解する前提になります。

オーガスタは1807年、従兄にあたる軍人ジョージ・リー大佐(1771年—1850年)と結婚しました。夫は賭博癖と借金を抱え、家計は慢性的に苦しかったと伝えられます。夫妻には七人の子が生まれました。そのうちの四女が、この物語の焦点になるエリザベス・メドラ・リーです。


1813〜1814年――疑惑が生まれた時期

バイロンとオーガスタの関係が「単なる姉弟の絆を超えていたのではないか」という疑惑が語られるのは、1813年から1814年にかけての時期です。この頃、二人が頻繁に会っていたことは記録に残っています。

そして1814年4月15日、オーガスタは娘を出産します。名はエリザベス・メドラ・リー(1814年—1849年)。この「メドラ」という名が、最初の引っかかりでした。メドラ(Medora)は、前年に大反響を呼んだバイロンの物語詩『海賊(The Corsair)』のヒロインの名だったのです。姉が、弟の詩の女主人公の名を、生まれた娘に与えた——この符合が、当時から人の口の端に上りました。

疑惑を強めた事実は、ほかにもいくつも記録されています。整理すると——

これらは一つひとつが「事実」として確認できるものです。ただし——ここが層分けの要です——これらの事実の束は、バイロンが実父であることを「示唆」はしても、「証明」はしません。 名づけ親を務めることも、甥や姪に贈り物をすることも、それ自体は当時の身内としてありうる振る舞いだからです。事実(訪問・洗礼・贈与)と、その意味(実父性)を、ここで慎重に切り分けておく必要があります。

もう一つ、疑惑の核心近くにある一次史料があります。メドラ誕生の直後、バイロンは親しい年長の女性レディ・メルバーンに宛てて手紙を書き、生まれた子に触れてこう記しています——「それでも“その甲斐はある”のだ。理由は言えない。それに“猿(Ape)”ではないし、もし猿なら、それは私のせいに違いない」。近親のあいだに生まれた子は奇形(「猿」)になるという当時の俗信をふまえた、ほのめかしとも読める一節です。しかし文面は徹底して曖昧で、暗号のようにぼかされています。この手紙が実在し、この文言であることは事実です。それが実父であることの告白なのかどうかは、読み手の解釈に委ねられたまま——ここでも、文言と含意は別の層にあります。

なお、法律上のメドラの父はあくまで夫ジョージ・リー大佐であり、彼は娘の父性を生涯疑わなかったと伝えられます。メドラ自身も、自分がバイロンの子かもしれないと知らずに、きょうだいの中で育ちました。


バイロンの結婚と崩壊

疑惑がくすぶるなか、バイロンは身を固めます。1815年1月2日、彼は真面目で数学好きの令嬢アン・イザベラ・ミルバンク(通称アナベラ)と結婚しました。同年12月10日、二人のあいだに娘が生まれます。後に世界初のコンピュータ・プログラマーと称されるエイダ・ラブレスです。

見過ごせないのは、バイロンがこの正妻の娘を「オーガスタ・エイダ」と名づけたことです。異母姉と同じ名を、生まれたばかりの嫡出の長女に与えた——この命名は事実であり、当時から不審の目で見られました。ただし繰り返せば、命名が事実であることと、それが後ろ暗い関係の証しであることとは、別の層の話です。名づけの理由をバイロン本人が明かした記録はありません。

結婚生活は、わずか一年で音を立てて崩れます。1816年1月、アナベラは生後一か月あまりの娘を連れて家を出ました。同年のうちに法的な別居が成立します。アナベラが夫のもとを去った理由については、後世の研究者が「精神的虐待」「アルコール依存」「男色(当時の刑法で重罪とされた行為)の疑惑」「異母姉オーガスタへの異常な執着」など、複数の説を挙げてきました。どれも“提唱された説”であって、確定した離婚事由ではありません。

アナベラ自身は、生涯にわたって別居の詳細を公に語ることを拒みました。ただし、後年になって重要な証言を一つ残しています。彼女は、バイロンの唯一の嫡出子であるエイダに対し、「メドラはあなたの異母姉で、父はバイロンだ」と告げたのです。この「アナベラがエイダにそう語った」という事実は記録に残っています。しかし——これもまた層の問題です——別居に至るほど夫を憎んだ妻の証言を、そのまま中立の事実として採用してよいかは、慎重を要します。証言の存在は事実。証言の内容が真実かどうかは、別の天秤にかかっています。


スキャンダルと追放

1816年4月25日、バイロンはドーヴァーから船でイギリスを発ちました。これは「事実上の追放」とも呼ばれる出国でした。

当時のロンドン社交界での彼の評判は、急速に地に落ちていました。妻との別居、異母姉との疑惑、男色の噂——これらが一度に噴き出し、かつて彼を熱狂的に持ち上げた社交界は、同じ速さで彼に背を向けます。舞踏会で人々が彼を避けた、という同時代のエピソードが伝えられるほど、失墜は劇的でした。

大陸に渡ったバイロンは、スイス・ジュネーヴ近郊のディオダティ荘に滞在し、そこで詩人シェリー夫妻と交わります(この夏の集いから、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』の着想が生まれたことはよく知られています)。彼はその後イタリアに移り、二度とイギリスの土を踏みませんでした。追放同然に国を出たこの時期に書かれたのが、劇詩『マンフレッド』や『カイン』といった後期の代表作です。

そしてこの1816年、失意の底で、バイロンは異母姉に宛てた二篇の詩を書いています。『オーガスタに寄せるスタンザ(Stanzas to Augusta)』と『オーガスタへの書簡(Epistle to Augusta)』です。前者はこう始まります——

Though the day of my destiny's over, / And the star of my fate hath declined, (わが運命の日は暮れ、わが宿星は落ちてしまったけれど)

そして詩は、世界中が自分を見放したときにただ一人裏切らなかった存在として、姉をうたい上げていきます。「たとえ引き離されても、逃げ去りはしなかった」「女でありながら、見捨てはしなかった」——これらの一節は、実在するバイロンの詩の文言です。詩がオーガスタに捧げられ、深い愛着を歌っていることは事実。ただし、詩に歌われた「愛」が姉弟の情愛なのか、それを超えたものなのかを、詩の言葉だけから決めることはできません。詩は告白ではなく、作品だからです。


ギリシャ独立戦争と最期

大陸を転々とした最晩年、バイロンはギリシャ独立戦争(オスマン帝国からの独立を目指す戦い)に身を投じます。彼は単に名を貸したのではなく、私財を投じ、ギリシャ軍の組織化と装備の資金を負担しました。詩人が机上のロマンではなく、実際の戦費と兵站に金と時間を費やしたことは、彼の生涯でしばしば見落とされがちな一面です。

しかし彼は、戦いの成果を見ることなく倒れます。1824年4月19日、ギリシャ西部の町ミソロンギで、熱病により死亡しました。36歳でした。当時の瀉血(しゃけつ)を含む治療がかえって体を弱らせたとも言われますが、死因の詳細には諸説があります。

バイロンの死は、ギリシャの人々にとって一種の殉教として受け止められました。現在もギリシャでは、独立に殉じた外国人の英雄として顕彰されています。スキャンダルにまみれて祖国を追われた詩人が、他国の独立史のなかで聖別される——この落差もまた、彼の生涯の縮図のようです。


オーガスタとの関係:何が真実か

ここで、疑惑の核心に正面から向き合っておきます。バイロンとオーガスタのあいだに、性的な関係は本当にあったのか。現在も、確定的な結論はありません。

一方には、「オーガスタへの感情は強い親近感・情緒的な依存であり、性的関係があったとする証拠は状況証拠の域を出ない」とする慎重な立場があります。名づけ親を務めたことも、贈り物も、詩に姉をうたったことも、身内への深い愛情という枠のなかで説明がつく、という見方です。

他方には、「バイロン自身の私信のほのめかし、詩の表現、当時者の証言、そして命名の符合を総合すると、性的関係が強く示唆される」とする立場があります。とりわけ、妻アナベラが娘エイダに語ったとされる証言は、この立場の有力な支えとされてきました。

研究者のあいだでも見解は割れ続けています。バイロンの評伝としては、フィオナ・マッカーシー『Byron: Life and Legend』(2002年)やベニタ・アイスラー『Byron: Child of Passion, Fool of Fame』(1999年)といった大部の研究が、この疑惑を正面から扱っていますが、「証明された」と言い切る書き方を、責任ある研究は避けています。 状況証拠は積み上がっている。しかし決定打はない。この「積み上がっているが、決まらない」という宙づりの状態こそが、この題材の正確な現在地です。

なぜ、これほど有名な疑惑が決着しないのか。理由の一つは皮肉なことに、最大の証拠になりえたはずの文書が、意図的に焼かれたことにあります。


焼かれた回想録――最大の証拠は灰になった

バイロンは1818年から1821年にかけて、自らの生涯・恋愛・本心を綴った回想録(メモワール)を書き残していました。彼は1819年10月、その原稿を友人の詩人トマス・ムーアに託します。ムーアはやがて、出版を前提に、これを出版人ジョン・マレーへ売却しました(1821年、2,100ポンド相当)。この時点では、いずれ活字になるはずの本でした。

ところが1824年、バイロンの訃報がロンドンに届くと、事態は一変します。故人の名誉を案じた関係者たちが、原稿の破棄に動いたのです。中心にいたのは、バイロンの親友で、当時は堅実な下院議員だったジョン・カム・ホブハウスでした。利益を見込んで出版したがるかと思われたマレーも、意外なほど破棄に傾きます。

1824年5月17日、ロンドンのアルベマール街50番地——マレーの事務所の応接室で、回想録の原稿は暖炉にくべられ、引き裂かれて燃やされました。その場には、マレー、ホブハウス、ムーア、そして詩人ヘンリー・ラトレルに加え、バイロンの異母姉オーガスタの代理人ウィルモット・ホートンと、未亡人アナベラの代理人フランシス・ドイル大佐が立ち会っています。実際に原稿を火にくべたのは、この二人の代理人だったと伝えられます。出版を望んだムーアだけが「バイロンの遺志に反し、自分にも不当だ」と抗議しましたが、押し切られました。

ここに、この事件の最も苦い皮肉があります。オーガスタとの関係の真実を知る最有力の手がかりだったかもしれない文書——その破棄の場に、オーガスタ自身の側(代理人)とアナベラ自身の側(代理人)、対立する両家が、そろって加わっていたのです。「故人の名誉を守るため」という大義のもとで。しかし守られたのが誰の名誉だったのかは、灰とともに永遠に分からなくなりました。

現在の研究者の一致した見方では、この回想録は回復不能に失われたとされます。写しが一部作られたものの、原稿ともども焼かれ、残っていません。歴史上もっとも有名な「読まれなかった本」の一冊は、こうして一度も活字にならずに消えました。

念のため層分けを確認します。回想録が実在し、託され、売られ、1824年5月17日に焼かれたことは、立会人の名前まで含めて記録に残る事実です。一方、その回想録にオーガスタとの関係の告白が書かれていたかどうかは、誰も中身を公表しないまま焼いた以上、永遠に確かめようがありません。焼かれた事実は動かない。焼かれた中身は、空白のままです。


「もしも」の視点:スキャンダルが詩を作ったのか

バイロンの詩には、「禁断の感情」「社会からの追放」「呪われた存在」というテーマが繰り返し現れます。この符合は、研究者に「彼自身の経験が詩の原動力になった」という読み方をうながしてきました。

もしもオーガスタとの疑惑がなく、スキャンダルもなく、彼がイギリスで安定した社会的立場を保ち続けていたとしたら——バイロンはあれほど鮮やかに「外縁に立つ者」の視点を持てたでしょうか。

彼が文学史に刻んだ「バイロニック・ヒーロー(陰のある反英雄)」——『チャイルド・ハロルドの巡礼』や『ドン・ジュアン』で結晶したあの魅力の核心は、「社会に属しながら属さない」という緊張にあります。栄光の頂点から一気に転落し、祖国を追われた彼自身の軌跡が、皮肉にも彼の最大の文学的主題を裏打ちしました。追放が視点を作り、スキャンダルがテーマを生んだ——そう見るなら、バイロンはある意味で「スキャンダルの産物」でもあったのです。

ただし、ここでも一線を引いておきます。「疑惑が詩を深めた」という読み方それ自体が、疑惑が事実だったと前提しないと成り立たない構図を含んでいます。私たちは、決着していない疑惑を、作品解釈の踏み台にしてしまいがちです。詩が「禁断」をうたっているからといって、詩人が禁断を犯した証拠にはならない。ここでも、作品(事実)と、伝記的事実(未確定)を、静かに分けておく必要があります。


🌀 もしも、回想録が焼かれずに出版されていたら?

二つの未来が考えられます。 ひとつは、オーガスタとの関係について本人がはっきり語っており、二百年続く論争がその日のうちに終わっていた未来。 もうひとつは、回想録ですら本人が真実をぼかしており、活字になってなお何も確定しなかった未来です。

破棄を主導した人々が恐れたのは、明らかに前者でした。「読めば分かってしまう」と判断したからこそ、対立する両家がそろって灰にした——その判断そのものが、ひとつの状況証拠になっている、という見方すら成り立ちます。とはいえ、恐れは証拠ではありません。彼らが恐れたことは、疑惑が真実だったことを意味しない。歴史は、答えを葬ることで、かえって問いを永遠に残すことがあります。バイロンとオーガスタは、その最も有名な例のひとつです。


主な参照

※オーガスタとの関係の実態、およびメドラの父性については、現在も研究者間で議論が続いています。本稿は、史料に残る事実(日付・手紙・出産と洗礼の記録)と、そこから先の疑惑・解釈を、意識的に層を分けて記述しました。疑惑を事実として断定してはいません。

本記事は note では公開していない、The IF Lab サイト独占コラムです。

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