ロベスピエール テルミドールの夜 ――1794年7月28日、革命独裁の最期
最期のページ · 2026-06-09 · 約2,500字 · 約6分
「徳なき恐怖は有害、恐怖なき徳は無力」——。 そう演説した男が、自らの言葉に飲み込まれるまで、わずか数か月の物語です。
1. 「徳と恐怖の独裁」、ジャコバンの頂点
マクシミリアン・ド・ロベスピエール(Maximilien de Robespierre, 1758-1794)は、フランス北部アラスの弁護士でした。地方の中流家庭に生まれ、奨学金を得てパリのルイ=ル=グラン学院に学んだ秀才で、若いころから「清廉」を信条とする生真面目な人物だったと伝えられます。
1789年、三部会の議員として国政の舞台に登場します。フランス革命の進行のなかで、彼は徐々に左派の中心へと押し上げられていきました。所属したジャコバン・クラブでは、強い演説と妥協のない原則論で頭角を現し、王の処刑(1793年1月のルイ16世処刑)にも賛成票を投じる急進派の代表格となっていきます。
1793年7月、彼は革命政府の最高執行機関である公安委員会に入ります。対外戦争(対オーストリア・プロイセン戦)と国内反乱(ヴァンデの反乱)に同時に直面する非常時のなかで、委員会は事実上の独裁機関へと変質していきました。ロベスピエール自身は委員長というポストにあったわけではないとされますが、演説と人脈と理念の力で、実質的にその顔となっていきます。
掲げた理念は「徳と恐怖」でした。1794年2月5日の国民公会演説で彼は、平時の政府の原動力は徳であり、革命下の政府の原動力は徳と恐怖の双方である、と語ったと伝えられます。徳のために、恐怖を使う——後世から見ればきわめて危ういロジックでしたが、当時の包囲された革命政府の論理としては、一定の説得力を持って受け止められた側面もありました。
実際、いわゆる恐怖政治の期間(1793年9月〜1794年7月、いわゆるテルール)には、革命裁判所の判決によって膨大な処刑が行われます。パリだけでおよそ2,600人前後、全国合計では研究者の推計に幅がありつつ16,000人から40,000人規模の処刑があったと整理されます(数字はあくまで複数の歴史研究を踏まえた幅のある推計です)。
2. プレリアール22日法と、最高存在の祭典
1794年に入ると、刃は革命派の内部に向かい始めます。3月、急進左派のエベール派が処刑されます。4月には、革命の盟友であったはずのダントンやデムーランら寛容派が処刑台に送られます。「革命は子供を食らう」(La Révolution dévore ses enfants)と後世に語られる象徴的なフェーズです。
6月8日、ロベスピエールはパリで最高存在の祭典(Fête de l'Être suprême)を主催します。無神論を排し、理性に基づく新たな市民宗教を打ち立てるという壮大な構想で、自ら祭儀の中心に立って演説しました。革命の側の道徳的浄化を意図した儀式とされますが、同僚たちのあいだでは「ロベスピエールが自らを聖人化しようとしている」と受け取られ、警戒を呼んだとも伝えられます。
その2日後、6月10日(プレリアール22日)、プレリアール22日法が国民公会で成立します。革命裁判所の手続きをさらに簡略化し、弁護人の選任を制限し、判決の選択肢を事実上「無罪か死刑か」の二択にする、という強硬な内容でした。この法のもとで、6月から7月にかけてのパリの処刑数は急増し、後世「大恐怖(Grande Terreur)」と呼ばれる局面に入っていきます。
問題は、その刃が誰にでも届きうるようになったことでした。それまでは外部の敵——王党派、亡命貴族、反乱地域——に向けられていた刃が、革命派の内部、さらには公安委員会や国民公会の議員自身にも向けられうる、という不安が、議場の空気を変えていきます。「次は自分かもしれない」という疑念は、独裁を維持する最大の燃料であると同時に、その独裁を内側から崩す最大の火種でもあります。
3. テルミドール8日の演説、9日の逮捕動議
1794年7月26日、革命暦でいうテルミドール8日。ロベスピエールは長い欠席のあと国民公会に戻り、約2時間の長大な演説を行ったとされます。彼はそこで、公安委員会や保安委員会のなかに「裏切り者がいる」と糾弾します。けれど、名前は最後まで挙げませんでした。
これが致命的でした。名前を挙げないということは、議場にいる全員が「自分のことか」と疑うということです。フーシェ、タリアン、バラスら、すでにロベスピエールの粛清リストに載っているのではないかと噂されていた議員たちは、その夜のうちに「先に動かなければ、明日には自分たちが処刑台に送られる」と判断し、急ごしらえの連携を組みます。
翌7月27日、テルミドール9日。国民公会の議場でロベスピエールが再び演説に立とうとした瞬間、議員たちは発言を妨害し、ヤジで掻き消しました。「暴君を倒せ」「ダントンの血がお前を絞め殺す」と叫ばれたと伝えられます。やがて議場は逮捕動議の採決へと雪崩れ込み、ロベスピエール本人、弟オーギュスタン、右腕のサン=ジュスト、足の不自由な思想家クートンらに対する逮捕令が可決されました。
ところがその夜、パリ・コミューン側がロベスピエールたちを身柄ごと救出し、市庁舎(オテル・ド・ヴィル)に立てこもります。武装した国民衛兵も一部は彼らに同情的でした。革命の象徴を、もう一度パリ民衆の蜂起の力で持ち上げ直す——そんなシナリオも、一瞬は現実味を帯びたとされます。けれど、ロベスピエール自身は、武装蜂起を正式に呼びかける書類への署名をためらった、と伝えられます。彼は最後まで、自らを「合法性の側」に置きたかったのかもしれません。
4. 市庁舎突入、撃たれた顎、翌夕のギロチン
7月28日(テルミドール10日)未明、国民公会側の差し向けた武装部隊が市庁舎に突入します。
このとき、ロベスピエールの顎はピストル弾で撃ち抜かれていました。自殺未遂説と、襲撃した憲兵メーダによる射撃説の双方が古くから語られており、現在も決定的な結論は出ていないとされます。いずれにせよ、彼は一命をとりとめたものの、口を開けないほどの重傷を負った状態で、サン=ジュストやクートンらとともに身柄を確保されました。
その日の夕方、革命広場(現在のコンコルド広場)で、彼らはギロチンにかけられます。裁判はありません。プレリアール22日法のもとですでに「法の埒外」と認定された者として、形式上の確認だけで処刑された、というのが通説です。最後に処刑台に上ったロベスピエールは、傷を押さえていた包帯を執行人にはぎ取られ、苦痛の叫びをあげたと伝えられます。この日処刑されたのは22名、翌7月29日にもさらに70名以上のパリ・コミューン関係者が続いて処刑されました。
恐怖政治はここで終わります。死亡時、ロベスピエールは36歳でした。テルミドール派と呼ばれることになるタリアン、フーシェ、バラスらが権力を握り、1795年に総裁政府が発足、1799年のブリュメール18日のクーデターでナポレオン・ボナパルトが台頭する道筋へとつながっていきます。
「もしも」の問い
もしテルミドール8日の演説で、ロベスピエールが「裏切り者」の名前を具体的に挙げていたら——。
おそらく、議場のすべての議員を一斉に敵に回すことはなかったでしょう。糾弾された側だけが孤立し、彼の独裁はもう少し長く続いたかもしれません。逆に、もし彼が最高存在の祭典でブレーキを踏み、プレリアール22日法を提出していなかったら、内部の恐怖はそこまで膨らまず、味方を残せたかもしれません。
「革命は子供を食らう」と語られるこの事件は、後世の政治学においてテロル国家(恐怖を統治原理として組み込んだ国家)研究の出発点のひとつとして扱われてきました。20世紀のスターリン主義や、文化大革命期の内部粛清が議論されるとき、テルミドールの夜は繰り返し引き合いに出されてきたとされます。
徳のために恐怖を使う、という論理は、一見すると合理的に見えます。 けれど、恐怖は使う者を選びません。 一度走り出した刃は、最後には演説者自身の顎を撃ち抜いて止まる——。 ロベスピエールの36年の生涯が残したのは、たぶん、そういう種類の警告です。
参考・出典
- Britannica — Maximilien Robespierre — 生涯と恐怖政治の概観
- French Revolution Digital Archive — Stanford University & BnF — 国民公会議事録・革命期一次史料アーカイブ
- Britannica — Thermidorian Reaction — テルミドール反動とその後の総裁政府期
