トマス・モア ロンドン塔の処刑 良心の沈黙
歴史のあやまち · 2026-07-12 · 約1,308字 · 約2分
1535年7月6日、ロンドン塔の処刑台。
57歳の元大法官(Lord Chancellor)が、斬首刑を待っていました。 名はトマス・モア。 かつてヘンリー8世の最も信頼する側近の一人で、『ユートピア』の著者として既に欧州中に名を知られていた人物です。
処刑前、彼は処刑人にこう言ったと伝えられます。 「私の首は短い。気をつけて切ってくれ」
軽口、と読むべきか、あるいは凍るような自己制御と読むべきか。 編集部内でもここは意見が割れました。
ただ。
この有名なエピソードも、出典は処刑から数十年経った伝記類にあり、本人の発言と断定しきれない部分が残されています。
1. 国王の友、人文主義者
トマス・モアは1478年、ロンドンの法律家の家に生まれました。 オックスフォード大学で学び、法曹界に入りつつ、ギリシャ古典とラテン文学に通じた**人文主義者(ユマニスト)**として名を上げていきます。 親友にエラスムス、文通相手に欧州各地の知識人がいた、という時代の中心人物です。
1516年、彼はラテン語で『ユートピア』を出版します。 架空の理想国家を描いたこの書物は、ヨーロッパ中で読まれ、「ユートピア」という単語そのものを後世に残しました。
ヘンリー8世とは早くから親交があり、1529年、モアは平民出身としては異例の 大法官(王国の最高司法官) に任命されます。 当時の英国宮廷で、これ以上ない出世だったと言われます。
2. 分岐点 ── 国王至上法
ところが事態は、王の私生活から崩れ始めます。
ヘンリー8世は、王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚をローマ教皇クレメンス7世に申請していました。 キャサリンは男児を産まず、王はアン・ブーリンとの再婚を望んでいたとされます。 教皇は離婚を認めませんでした。
1533年、王は教皇権から離脱する道を選びます。 1534年に成立した 国王至上法(Act of Supremacy) は、英国国王をイングランド国教会の最高首長と定めるものでした。 ローマ教皇の頭越しに、王が自国の教会のトップになる、という宗教改革の英国版です。
国王の高官・聖職者は、この至上法と王の新たな結婚を承認する宣誓を求められました。 モアはここで沈黙を選びます。 「反対する」とは言わない。「賛成する」とも言わない。
——もしモアが宣誓していたら、と考えてしまいます。 彼の友人ジョン・フィッシャー枢機卿のような頑固な拒否ではなく、形式的な承認だけして実質を温存する、という妥協は当時の高官の多くが選んだ道でした。 しかしモアはそれをしませんでした。 「沈黙は承認」という法格言を盾に法廷で防御を試みますが、最終的に有罪とされます。
3. ロンドン塔の15ヶ月
1534年4月、モアはロンドン塔に投獄されます。 処刑までおよそ15ヶ月、彼は獄中で書き続けました。
『苦難に対する慰めの対話(A Dialogue of Comfort against Tribulation)』『キリストの受難についての黙想』など、後世に残る宗教文学が獄中で生まれたとされます。 ボエティウスの『哲学の慰め』を意識した形跡もある、という見方が学説の一つです。
