もしも研究所

1900年パリ、ホテルの壁紙

最期のページ · 2026-06-07 · 約2,100字 · 約4分

オスカー・ワイルド——『ドリアン・グレイの肖像』『幸福な王子』『真面目が肝心』の劇作家、19世紀末ロンドンの最もきらびやかな才人。1895年に「公衆道徳に反する罪」(同性愛)で有罪となり、2年間の重労働(hard labour)を宣告された。

出獄したのは1897年5月19日。47歳になる前だった。

彼は二度とイギリスの土を踏まなかった。

偽名でフランスへ

ワイルドは出獄と同時にフランスへ渡った。妻のコンスタンスは既に二人の息子を連れてイタリアに移住しており、ワイルドの名前をホランド(Holland)に変えていた。彼は息子たちに二度と会わせてもらえなかった。

彼自身も、フランスではセバスチャン・メルモス(Sebastian Melmoth)という偽名で生きた。「セバスチャン」は矢を射られて殉教した聖人の名から。「メルモス」は彼の大叔父の小説『Melmoth the Wanderer』(放浪者メルモス, 1820)から——永遠の地獄を背負った放浪者の物語だ。

獄中で書き上げた長文の自伝的告白『De Profundis』(深き淵より)と、彼の最後の重要な作品となった詩『The Ballad of Reading Gaol』(レディング監獄のバラード, 1898)を完成させた後、ワイルドの創作はほぼ止まった。

「私は自分自身を、自分の天才より低い高みで生きてしまった」——獄中で書いた一節は、出獄後の彼の生活そのものを予言していた。

パリ、ロテル(L'Hôtel)

最後の数年、ワイルドはパリ左岸のロテル(L'Hôtel)、当時の名でHôtel d'Alsace——サン・ジェルマン・デ・プレ近くの小さな宿——に住んでいた。家賃は安く、宿の主人ジャン・デュポワリエは、財政難のワイルドに何度も延滞を許した、と後の伝記には書かれている。

彼の財政状況は深刻だった。元妻コンスタンスは1898年に死去し、息子たちからの遺産分与の管理は厳格に行われた。ロバート・ロス(後の文学遺産執行者)ら一握りの友人からの仕送りに、生活のほとんどを依存していた。

それでも、パリの街での社交は続いていた。彼を見かけたパリの作家・芸術家たちの証言は、複数残っている。アンドレ・ジッド、ピエール・ルイス、フランク・ハリス——彼らがワイルドと夜のカフェで話した記録は、後にそれぞれの回想録に記されている。

「彼は本質的に変わっていなかった」——出獄後のワイルドを見た複数の人物が、同じ印象を残している。「ただし、彼は前より静かで、前より速く疲れていた」と。

1900年秋

1900年10月、ワイルドは耳の感染症で手術を受けた。獄中時代に始まったとされる慢性の感染が、悪化したものだった。手術後の回復は順調ではなかった。

11月の終わりには、彼は意識が混濁しはじめていた。当時の医師の所見は、現代の医学から振り返ると、髄膜炎(meningitis)である可能性が高い——耳の感染が頭蓋内に進行した結果だ、と複数の医学史家が指摘している。

ロバート・ロスがロンドンから駆けつけた。ワイルドはカトリックに改宗を求め、カトリックの司祭が枕元で病者の塗油を授けた。

1900年11月30日午後1時50分頃、オスカー・ワイルド死去。46歳だった。

「壁紙か、私か」

ここで、世界中で繰り返し語られてきた最期の言葉(last words)の話に入る。

「この壁紙か私か、どちらかが消えなければならない」 "Either that wallpaper goes, or I do."

ワイルドの最期の言葉として、世界中の引用集・名言集に必ず登場するこの一節。死の床で、貧相な部屋の壁紙を見て、最後の機知をひとつ残して逝った——というのが、世間に流通している物語だ。

この言葉が、本当に死の直前のものか、というと、答えは「おそらく、そうではない」になる。

複数の伝記研究を踏まえると、この発言はワイルドの死の数ヶ月前——おそらく1900年10月の手術前後——のもの、と推定されている。彼が冗談として友人たちに語った発言が、後の伝記作家リチャード・エルマンらの整理を経て、「最期の言葉」として定着していった、というのが現状の有力な見解だ。

死の直前の彼は、意識が混濁しており、まとまった発言を残せる状態ではなかった、と立ち会った人々は記している。

それでも、なぜこの言葉は残ったか

「最期の言葉」としては作り話に近い、と分かった上で、それでも、この一節がワイルドの墓碑のように世紀を越えて読まれ続ける理由は、考えてみる価値がある。

ひとつは、これがワイルドそのものだからだ。彼の作品のどこを開いても、人生の悲劇を、機知で薄めて差し出す姿勢が貫かれている。獄中で書いた『De Profundis』ですら、自己憐憫のなかに皮肉が混ざる。「壁紙か、私か」は、出典が確定しないからこそ、彼の精神の最も純粋な要約として機能してしまうのだ。

もうひとつは、私たちが、最期の言葉に意味を持たせたいからだろう。彼ほどの言葉の達人が、ありふれた意識朦朧の死を迎えたとは、信じたくない。死の床で笑いを残してくれたほうが、私たちの側が救われる。それが伝説を強化していく。

墓所

ワイルドはパリのペール・ラシェーズ墓地に葬られている。1914年にジェイコブ・エプスタイン作の翼のあるスフィンクス像の墓碑が建てられた。20世紀を通じて、世界中の読者がこの墓に「キスマーク」(口紅で印をつけたキス)を残す習慣ができた。あまりに大量のキスマークが墓石を侵食したため、2011年に墓地管理者がガラスのパーティションで囲んだ。

それでも、訪問者は今もキスを送り続けている。ガラスの向こうに。

愛されたい人は、まず先に愛さなければならない」——ワイルド自身が『幸福な王子』に書いた一節を、彼の墓は、120年以上経った今も実演している。


参照

本記事は2026年6月時点で公開されている英語・日本語の主要資料(主要伝記・同時代証言・墓地公式案内)を踏まえて整理したノンフィクションです。最期の言葉の真贋を巡る伝記研究には複数の見解があります。

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