もしも研究所

もし人類が光合成できたら — 「働かなくても飢えない」世界で、人は何のために動くのか

もしも時間 · 2026-06-05 · 約3,900字 · 約8分

「食べるために働く」が消える日

人類が光合成できたら——たいてい話は「食事から解放される」「農業がいらなくなる」で止まる。でも、もう一歩進めたい。人が空腹と無縁になったら、消えるのは食卓だけではない。「食べるために働く」という、文明をここまで動かしてきた最大の動機そのものが消える。飢えなくなった人類は、いったい何のために動くのか——労働と経済の根っこを揺さぶる問いだ。

光合成は、植物や藻類が光で二酸化炭素と水から糖を作るしくみで、その過程で酸素を吐き出し、地球を生命の住める星に変えてきた。ただし大事なのは、それが「動かない生き方」とセットだという点だ。植物は動かず、広い葉を太陽に向け、ゆっくり蓄える。対して人間は、けた違いに多くのエネルギーを使うのに、太陽を受ける体の面積は小さい。歩き、考え、体温を保つだけで、植物とは比べものにならない燃料を燃やしている。だから社会論に進む前に、まず数字で確かめておきたい——そもそも人間は、光合成だけで生きられるのか。この一点をごまかすと、その先の空想はぜんぶ砂上の楼閣になる。

大真面目に、計算してみる

夢を語る前に、いったん電卓を叩く。人間が光合成で生きられるかを、まず数字で確かめておきたい。

成人に必要なエネルギーは1日およそ2,000kcal。地表に届く日射を、ざっくり1㎡あたり1日2万kJとする。作物の光合成効率をかなり甘めに2%で見ても、得られる化学エネルギーは400kJ、つまり約100kcal。バナナ1本ぶんだ。必要量2,000kcalの、たった**5%**でしかない。

つまり、全量を光で賄うには、体に20㎡ぶんの葉を広げて、朝から晩まで日なたでじっとしている必要がある。しかも光合成中は、動けば動くほどエネルギーを使ってしまう。その巨大な葉を広げたまま、一日中動かずにいなければならない。

念のために言い足しておくと、ここで置いた「2%」は、決して植物に厳しい数字ではない。むしろ甘い。畑の作物が太陽エネルギーを実際に糖や体に変えている効率は、一年をならすとおおむね1%前後。光合成の各段階を積み上げた2008年の代表的な試算によれば、理論上の上限でさえC3植物で4.6%、C4植物で6%どまりとされる。光合成の"優等生"であるクロレラやミドリムシのような微細藻類を、水槽で条件を整えて育てても、屋外の直射日光の下では変換効率はせいぜい数%まで落ちる。つまり計算に使った2%は、地球でいちばん光合成が得意な生き物のベスト記録に近い、かなり無理をした値だ。それでバナナ1本。現実の人間の皮膚で、となれば、桁がもう一つ二つ足りない。

結論。光合成で生きるには、人間をやめて植物になるしかない。「動き回って大量に使う」動物の生き方と、「動かず少しずつ貯める」植物の生き方は、そもそも両立しないのだ。

自然が出した、同じ答え

それでも「動物なのに光合成する生き物」は実在する。ウミウシの一種、エリシア・クロロティカ(Elysia chlorotica)だ。食べた藻類(Vaucheria litorea)の葉緑体を体内に取り込み(盗葉緑体・クレプトプラスティ)、光さえあれば10か月から1年——ほぼ一生ぶん——エサなしで生きられる例として知られている。

ただし、数cm。薄い。あまり動かない。

平たい体を広げて、じっと光を浴びるだけ。自然が出した答えも、さっきの計算とぴたり同じだった——光で生きたいなら、小さく、平たく、動くな。

そして、もっと大きな生き物にも、自然は同じ答えを出している。サンゴだ。サンゴは体内に褐虫藻という藻類を住まわせ、その光合成が生み出す糖で、必要なエネルギーの最大で9割ほどをまかなっている。集まれば人間よりはるかに大きな構造物——サンゴ礁——を築くほどの、れっきとした"太陽で動く動物"だ。だが、サンゴもやはり動かない。岩に固着し、広い面を光へ向けて、じっとしている。しかも太陽だけでは足りず、夜になると触手を伸ばして動物プランクトンを狩る。つまりサンゴは、自然がすでにつくり上げた「大半だけ光合成する動物」なのだ。そしてその生き方の答えは——動くのをやめ、それでも狩りは手放さない、だった。

しかも、この太陽まかせの暮らしは、思いのほか危うい。海水温が上がりすぎたり光が強すぎたりすると、サンゴはストレスで体内の褐虫藻を吐き出してしまう。色を失って白くなり——いわゆる白化だ——エネルギー源を手放したサンゴは、そのままでは飢えていく。光で生きるという離れ業を成立させていた当のパートナーシップが、環境が少し傾いただけで、あっけなくほどける。太陽で生きることは、食べる苦労からの解放であると同時に、細い一本の糸に命を預けることでもあるらしい。ただ動かずにいればいい、という単純な話ではないのだ。

人間サイズで、自由に動き回りながら、光だけで腹を満たす生き物は、40億年の進化史に、ついに一匹も現れなかった。

人工なら、ずるができるのか

では、進化がだめでも、人間の技術ならこの壁を越えられるのか。人工光合成——太陽光と水と二酸化炭素から、燃料を直接つくり出す研究——は、いまたしかに前進している。2025年には、外部電源も使わず、太陽光と水だけで水素を取り出す装置の変換効率が10%を超えた、という報告が出た。葉っぱのならし効率が1%前後だから、ざっと十倍。人類の英知は、光合成という一点では、植物を追い抜きつつある。

それでも、だ。効率が十倍になっても、話の骨格は動かない。さっきの計算で、人ひとりを養うには20㎡の葉が要ると出た。効率が十倍なら、必要な面積は**2㎡**まで縮む——畳一枚とすこし。悪くない数字だ。ただしそれは、そのパネルを、動かさず、日なたに、一日中広げておければの話である。効率をどれだけ磨いても、「面を光に向けて、動かずにいる」という植物の生き方そのものからは、最後まで抜けられない。技術が押し上げられるのは変換効率であって、太陽が地面に届けるエネルギーの総量ではないからだ。

しかも人工光合成が生み出すのは、いまのところ水素やメタンといった燃料であって、そのまま口に入る食べ物ではない。人を直接"光で養う"ところまでは、まだ遠い。けれど仮にいつか、太陽から人の使える形のエネルギーを取り出せたとしても——面積と、動かないこと。この二つの請求書だけは、効率とは別勘定で、最後まで残る。自然が40億年かけて出した答えに、技術はまだ、ただうなずいているところだ。

では、「半分だけ」だったら

だから本当に面白いのは「全部」ではなく「半分」だ。もし人間が、必要カロリーの半分だけでも光合成できたら、どうなるか。サンゴが実際にそうしているように、光で大半を賄い、足りない分だけを口から補う——その"半光合成人類"なら、動物の身軽さを捨てずに済む。

たぶん、文明の前提が少し壊れる。人類が耕し、狩り、稼いできた理由の根っこには、ずっと「食べていくため」があった。給料の多くは、つきつめれば胃袋のためのお金だ。その圧力が半分になるだけで、「いやでも働く」という社会の強制力は、目に見えて緩む。残業を断る人が増える。我慢の値段が下がる。会社の説得力が、少し落ちる。たかが半分の昼食、されど、経済を回してきた背中のひと押しが、半分になるということだ。

数字にすると、この「半分」の重さがわかる。いまも世界で働く人の、およそ4人に1人——2023年でおよそ9億人が、農業で生計を立てている。そして人が暮らせる土地の、およそ半分が、農地や牧草地に姿を変えている。文明はいまだに、これほど途方もない人手と面積を、「食べる」の一語に注ぎ込みつづけているのだ。もし一人ひとりが必要カロリーの半分を自前の光合成でまかなえたなら、この巨大な配分が、理屈のうえでは半分で足りることになる。空いた畑、空いた手、空いた時間が、いっせいに宙に浮く。人類が歴史上はじめて手にする、使い道の決まっていない莫大な余白だ。問題は、その余白を、私たちが何で埋めるのかである。

じつは、似たことは一度、本当に起きている。産業革命より前、人類のほとんど——多くの社会で人口の8割前後——は、食べ物を得ることだけに一生の大半を費やしていた。それが機械と化学肥料でくつがえり、農業で働く人の割合は、世界全体でも1991年の約43%から、いまや**約26%**まで落ちた。豊かな国では、わずか数%だ。つまり人類は、食べるための労働から、すでに一度、大規模に解放されている。「半分だけ」どころか、多くの人にとっては「ほとんど」が、もう浮いているのだ。

では、浮いたその膨大な時間で、私たちは日なたに寝そべって暮らすようになっただろうか。ならなかった。空いた手は、工場へ、事務所へ、店へと吸い込まれ、昨日まで存在しなかった仕事と、昨日まで欲しくもなかった物を、次々に生み出しつづけている。食べるための労働が減った先に現れたのは、休息ではなく、新しい忙しさだった。飢えの圧力がゆるむたび、人間はその空きを、別の欲望できっちり埋め戻してきた。だとすれば、光合成で浮くもう半分も、たぶん同じ道をたどる。空腹という最後の大義名分が消えても、人はおそらく、そう簡単には休まない。

しかも太陽は、基本的に奪い合えない。誰かが日なたに立っても、隣の取り分は減らない。買い占めても、貯め込んでも、意味がない。「希少だから価値がある」という経済の大原則が、エネルギー源には効かなくなる。考えてみれば、人類がこれまで奪い合ってきたものは、たいてい「独り占めできる」から力になった。石油をめぐって戦争が起き、水と土地をめぐって国境が引かれ、食料を握る者が飢える者を従えてきた。奪えるからこそ、それは権力の源になったのだ。だが、日なたに国境は引けない。誰かの頭上の光を、囲い込むことはできない。土地や食料を握ることが力だった世界の土台がゆらぎ、人が最後に奪い合うのは——食料ではなく、「ヒマの使い方」になる。誰の取り分も減らさずに手に入る太陽の下で、それでも人が奪い合えるものが残るとすれば、それは物ではなく、時間の使い道と、他人からの視線くらいなのかもしれない。

空腹は、動けることの代金だった

エリシアも、サンゴも、最先端の人工の葉さえも、みな同じ一点で足踏みしている——光で生きたいなら、動くのをあきらめろ。人間だけが、40億年ぶんのその取引を断り、腹が鳴るのを引き受ける代わりに、動く自由を選んだ生き物だ。そして産業革命が食べるための労働を大きく減らしたあとも、私たちは休むより先に、また歩き出した。飢えから遠ざかるたびに、人はじっとするのではなく、動き続ける口実のほうを新しく見つけてきた。だから、と思う。

空腹は、設計ミスではない。自由に動き回り、考え、遠くまで行けるという、動物の贅沢の請求書だ。

お腹が鳴るのは、あなたがまだ、どこへでも行ける証拠である。


光合成の変換効率(作物で実測ならして約1%・理論上限もC3で約4.6%/C4で約6%=研究による理論値)、微細藻類の屋外効率が数%どまりであること、エリシア・クロロティカが盗葉緑体で約10か月〜1年エサなしに生きられること、サンゴが褐虫藻の光合成で必要エネルギーの最大9割ほどを得つつなお動物プランクトンを捕食すること、人工光合成の太陽光→水素変換効率が2025年に10%を超えたこと、農業が世界の就業者の約26%(約9億人・2023年)と居住可能な陸地の約半分を占めることは、いずれも公開された研究・統計に基づく。必要エネルギー量や受光面積からの試算は前提を置いたごく粗い概算で、数値は条件で大きく変わる。「半分だけ光合成」以降の社会的影響は思考実験である。

主な参照


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