もしも研究所

アレクサンドロス大王 バビロンの謎の死 ――33歳の征服者はなぜ死んだのか

歴史のあやまち · 2026-10-03 · 約2,865字 · 約5分

宴の翌朝

紀元前323年6月、バビロンの宮殿で一つの宴が幕を閉じた。

ネアルコス(Nearchus)提督の饗宴に参加したアレクサンドロスは、深夜まで飲み続けた。宴の途中、突然激しい痛みに襲われたとも、翌朝から発熱が始まったとも伝えられる。それから約10日間、33歳の征服者は病床で過ごし、言葉を失い、最後には意識を失って逝った。

ペルシャ全土、エジプト、インドの一部にまで及んだ帝国を作り上げた人物の死にしては、あまりにも唐突だった。そしてあまりにも記録が錯綜している。

これが3000年近く後の今も研究者を惹きつける謎の核心だ。


13年の征服

アレクサンドロスがマケドニア王位を継いだのは紀元前336年、父フィリッポス2世が暗殺された直後のことだった。それから13年間、彼は一度も戦場で敗れることなく、ギリシャからペルシャ、エジプト、中央アジア、インドの一角まで進んだ。グラニコス川、イッソス、ガウガメラ、ヒュダスペス川——これらの戦いはすべて彼の勝利で終わった。

彼の統治哲学は、単純な征服とは異なっていたとされる。各地の文化・宗教を容認し、地元の行政官を登用し、ギリシャ文化と現地文化を融合させる「ヘレニズム」の核を形成したとも評価される一方、暴力と粛清によって統制を維持したという側面も記録に残る。

バビロンはペルシャ帝国の中心都市のひとつであり、アレクサンドロスはここを帝国の首都とすることを考えていたとも言われている。しかし彼がバビロンに戻ってきた紀元前323年の春、病床に就くまでの時間はわずかだった。


死因をめぐる五つの仮説

仮説1: チフスと腸穿孔

現在、多くの古代史研究者が最有力視するのは「チフス(腸チフス)と腸穿孔の合併」説だ。

症状の経過として記録されているもの——高熱、腹痛、意識の混濁——はチフスの典型的な症状に一致するとされる。バビロンのユーフラテス川流域は汚染された水源があった可能性があり、大軍を率いて広大な地域を移動してきたアレクサンドロスの免疫が弱っていた可能性も考えられる。

2019年に医学誌に発表されたある論文は、アレクサンドロスが死後に「ギラン・バレー症候群」に罹患していた可能性を提唱し、それが死亡の6日前から記録される「見かけ上の死(仮死状態)」を説明できると論じた。腸チフスはギラン・バレー症候群を引き起こす原因のひとつとして現在知られている。

仮説2: 毒殺説

古代から繰り返された疑惑が毒殺説だ。

有力な嫌疑者として挙げられるのは、後にマケドニア王となるアンティパトロスとその息子カッサンドロスだ。彼らはアレクサンドロスと確執があり、アレクサンドロスがバビロンからヨーロッパに戻って親征する計画を立てていたことが彼らへの脅威になっていたとされる。

「スティクスの水(Styx water)」という、極めて腐食性の強い水を使った毒殺という伝説的な話も後世に伝わっている。2010年代に一部の研究者が、現代のギリシャで採取されたカリア地方のマメ科植物由来の毒(Veratrum album)を候補として挙げた論考もある。

しかし毒殺説を直接支持する一次資料は現時点で存在せず、状況証拠的な推論にとどまっている。

仮説3: アルコール依存と体力の消耗

晩年のアレクサンドロスが大量に飲酒するようになっていたことは、複数の歴史家が記録している。インド遠征での疲弊、側近クレイトスを酔った勢いで殺したこと(紀元前328年)による精神的打撃、愛馬ブケファラスの死——これらが重なり、精神的・身体的なバランスを崩していたとする解釈もある。

アルコール依存による肝機能の低下が、チフスや他の感染症への抵抗力を大幅に下げた可能性は否定できない。

仮説4: 西ナイル熱

比較的新しい仮説として、西ナイル熱ウイルス説がある。バビロン周辺の湿地帯は蚊が多く、死の直前に多数の鳥が死んでいたという記録(アッリアノスやプルタルコスが言及)が、実は西ナイル熱の兆候だったと解釈する研究者もいる。ただしこの説も現時点では仮説の域を出ない。

仮説5: 単純な肺炎

長年の遠征での疲弊から免疫が低下し、ありふれた肺炎で死亡したとする説も根強い。「偉大な征服者が凡庸な病気で死んだ」という皮肉をはらんだ説だが、医学的には十分ありうる。


6日間の謎: 死んでいたのか、生きていたのか

アレクサンドロスの死にまつわる特異な記録がある。彼が「死亡」した後、遺体を安置したところ、6日間にわたって腐敗の兆候が現れなかったというものだ。これは当時、神性の証拠として語られた。

2019年の上述の論文は、これをギラン・バレー症候群による「意識はないが心臓は動いている状態」で説明できると論じた。つまりアレクサンドロスは実際には「死んでいなかった」可能性があり、生きたまま埋葬されたという仮説だ。これは衝撃的な提唱だが、現時点では確認できない仮説にとどまる。


もしも33歳で死ななかったとしたら

紀元前323年の夏、もしもアレクサンドロスが回復していたとしたら、どうなっていたか。

彼はアラビア半島の征服計画を立てていたとされる。さらにカルタゴ、さらには地中海西方への遠征構想もあったという記録がある。

もしそれが実行されていたとすれば、ローマ帝国の隆盛は大幅に遅延するか、あるいは全く別の形になっていた可能性がある。ヘレニズム文化がさらに西方に広がり、ラテン文化ではなくギリシャ語文化が西洋文明の基盤になっていたかもしれない。

だがこれは思考実験に過ぎない。確かなのは、彼の急死が帝国を権力の空白に置き、「ディアドコイ(後継者たち)」の戦争を引き起こし、彼の征服地を数十年で分裂させたという事実だ。

帝国の大きさは、後継者の準備の無さを際立たせた。33歳は帝国を作るには十分な年齢だが、後継者を育てるには短すぎた。


残された問い

2025年時点においても、アレクサンドロスの死因に関する論文は定期的に発表されている。チフス説が最有力とされているが、毒殺説・ギラン・バレー説なども完全には退けられていない。

古代の記録を残したアッリアノス、プルタルコス、クルティウス・ルフスらの著作はいずれもアレクサンドロスの死後数百年後に書かれたものであり、一次資料として扱うことはできない。バビロンの王宮日誌(Babylonian Astronomical Diaries)の一部に彼の死の前後の記録があるとされるが、解読と解釈には限界がある。

33歳で世界の一部を征服した人物が、なぜ死んだのか。その答えは、今もバビロンの砂の下に眠っている。


本稿の史実部分は、アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』、プルタルコス『英雄伝』、P.A.ブラント訳注解版、および近年の医学論文(Sbarounis 1997, Schep et al. 2014, Ashrafian 2019等)を参照して構成しています。諸説があり、確定的な結論ではありません。


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