もしも研究所

ベル研究所のトランジスタ特許 三人の科学者と一つの装置

歴史のあやまち · 2026-09-15 · 約2,200字 · 約4分

スマートフォンの中には、1兆個を超えるトランジスタが入っているといわれます。 ノートPCの中にも、自動車のエンジン制御ユニットにも、冷蔵庫のセンサーにも——。 20世紀後半以降のテクノロジーは、ほぼすべて、この小さなスイッチに依存して動いています。

その「最初の一個」が動いたのは、1947年12月23日、米ニュージャージー州マレーヒルの研究所内、と記録されています。

1. 真空管の限界

第二次世界大戦の前後、電子機器の主役は 真空管(vacuum tube)でした。 ラジオ、レーダー、初期のコンピュータ——いずれも内部に多数のガラス管が並ぶ姿が、当時の技術の象徴でした。

ただ、真空管には根本的な弱点がありました。

大きい(数センチ単位)、熱い(白熱する)、壊れやすい(衝撃と寿命に弱い)、電力を食う(フィラメント加熱が必須)。 1946年に稼働した初期コンピュータ ENIAC は、約 17,468本 の真空管を搭載しており、稼働中は数分〜数十分に1本のペースで真空管が切れる、と言われていました。

電話会社のベル・テレフォン・システム(米国の電話事業をほぼ独占していた巨大企業)も、この問題に頭を悩ませていました。 電話交換機や中継増幅器に膨大な真空管を使っており、その故障対応コストが事業のボトルネックだったのです。

そのベル社の研究子会社、ベル電話研究所(Bell Telephone Laboratories、通称ベル研究所)が、戦後すぐに立ち上げたのが「固体物理学グループ」でした。 真空管に代わる、固体素子による増幅装置——その開発が、グループに与えられたミッションだったとされます。

2. 三人の科学者

グループの中心になったのは、三人の物理学者でした。

ウィリアム・ショックレー(1910年生まれ)。 カリフォルニア工科大学で学んだ理論派。グループのリーダー格で、性格は強烈だったといわれます。

ジョン・バーディーン(1908年生まれ)。 プリンストン大学で固体物理学の博士号を取得した、生粋の理論家。後年、唯一の ノーベル物理学賞2回受賞者 になる人物です。

ウォルター・ブラッテン(1902年生まれ)。 実験技術に長けた、いわば「手の人」。装置を組み、現象を確認する役割を担っていたと伝えられます。

ショックレーは、当初「電界効果」(field-effect)という方式で半導体スイッチを作ろうとしていたといわれます。 ただ、何度実験しても理論通りに動きません。理論と実験のずれをめぐる議論が、グループ内で続いていたとされます。

バーディーンが転機をもたらしたのは、ショックレー方式が動かない理由を「表面状態」(surface states)に求めた論文を1947年に発表したときです。 半導体の表面に局在する電子の集団が、内部の電界を遮蔽してしまっている——という説明でした。

それなら、表面に直接アクセスする構造で試そう——というのが、バーディーンとブラッテンの方針転換です。 ショックレーは、このとき自宅にいて議論に加わっていなかった、ともいわれます。

3. 1947年12月23日のデモ

1947年12月16日、バーディーンとブラッテンは、ゲルマニウムの結晶片の表面に、二本の細い金箔の電極を1ミリ以下の間隔で接触させた装置で、電気信号の 増幅 を観測しました。 これが、後に「点接触トランジスタ」(point-contact transistor)と呼ばれる装置の最初の動作確認です。

そして同月 23日、ベル研究所の幹部を集めた正式デモで、装置は人間の声を 約100倍 に増幅して見せた、と伝えられます。 この日が、トランジスタ発明の公式な記念日として記録されています。

ところが、ここから話がややこしくなります。 ショックレーは、デモの場で大きなショックを受けたと伝えられています。 自分が率いるグループの最も重要な発明が、自分抜きで完成してしまった——という事態だったからです。

ショックレーはその後、1ヶ月 ほどホテルに籠もり、独力で別方式のトランジスタを設計したといわれます。 それが 接合型トランジスタ(junction transistor)です。 構造は点接触型より洗練されており、量産向きでした。後年の半導体産業を支えた基本構造は、この接合型のほうです。

特許関係の処理は、ショックレーの介入で複雑になります。 最終的に 米国特許2,524,035号(1948年6月17日出願、1950年9月26日付与)は、バーディーンとブラッテンの名義で取得されました。 一方、ショックレー単独名義での接合型特許も別途取得されており、ベル研究所はトランジスタ関連で複数の基本特許を抱えることになります。

4. 「与える」という意外な選択

ベル研究所の親会社AT&Tは、当時、米司法省から 独占禁止法違反 の追及を受けている真っ最中でした。 1949年に提起された訴訟は、AT&Tの巨大さそのものを問うもので、最悪の場合は会社分割もありえる状況だったといわれます。

AT&Tと司法省は、1956年に コンセント・デクリー(同意審決)で和解します。 和解条件のひとつに、こんな一項がありました。

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