もしも研究所

ベルヌーイの『流体力学』 ――1738年、父との競争が産んだ「圧力と流速の方程式」

もしも時間 · 2026-06-09 · 約2,500字 · 約6分

蛇口の先を指でつまむと、水は勢いよく細く飛び出す。 翼の上を流れる空気は、下より速く流れて、機体を浮かせる。 そんな「流れが速いところでは、圧力が下がる」という現象を、一本のシンプルな式に閉じ込めた本がある。1738年、スイス人数学者ダニエル・ベルヌーイが出版した『Hydrodynamica(流体力学)』だ。

その背後には、当時ヨーロッパ随一の数学一族をめぐる、ひとつの確執があった。

1. ベルヌーイ家、科学者の一族

ダニエル・ベルヌーイ(Daniel Bernoulli, 1700-1782)は、スイス・バーゼルの数学者一族に生まれた。父ヨハン・ベルヌーイ(Johann Bernoulli, 1667-1748)は当代屈指の数学者で、伯父のヤコブ・ベルヌーイ(Jacob Bernoulli, 1654-1705)は確率論や「大数の法則」で名を残した人物だ。ベルヌーイ家からは数世代にわたって、十数人規模の数学者・物理学者が出ている。

ダニエル自身は最初、父の勧めで医学を学んだ。バーゼル大学で1721年に医学博士号を取得し、博士論文では呼吸の力学を扱った。生き物のなかを流れる空気や血液、つまり「流れるもの」への関心は、すでにこの頃から芽生えていたとみられる。

20代の後半、ダニエルはロシア帝国・サンクトペテルブルク科学アカデミーに招かれる。1725年から1733年までの約8年間、彼はここで数学教授として研究を続けた。発足してまもないアカデミーは、ヨーロッパ中から若手研究者を集める実験場のような場所で、同僚には後に「オイラー」と呼ばれる若きレオンハルト・オイラーもいた。ダニエルが『流体力学』の草稿の多くを仕上げたのは、この極寒の研究都市でだった。

2. P + ½ρv² + ρgh = 一定

『Hydrodynamica, sive de viribus et motibus fluidorum commentarii(流体力学、すなわち流体の力と運動の論集)』は、1738年にストラスブールで出版された全13章の大著だ。タイトルにある "Hydrodynamica" という語そのものを、ダニエルが造った新しい言葉だったとする解説も多い。流体について「静水力学(hydrostatics)」と「動水力学」を区別せず、ひとつの体系として扱おうとしたこと自体が、当時としては新しかった。

この本の中核に置かれているのが、後に「ベルヌーイの定理(原理)」と呼ばれることになる関係である。定常で、粘性がなく、圧縮されない流れを仮定したとき、流体の各点で

P + ½ρv² + ρgh = 一定

という量が保存される――そう整理できる関係だ。Pは圧力、ρは流体の密度、vはその点での流速、gは重力加速度、hは基準面からの高さを表す。式そのものを現代的なベクトル形で書いたのはオイラーらの後世の整理によるが、本質的な発想――「流体の運動エネルギーと圧力と位置エネルギーは、互いに変換しあう量だ」という見方――は、すでにここに含まれていた。

何が革命的だったのか。当時の力学は、ニュートン(『プリンキピア』1687年)が確立した「質点の力学」が中心で、水や空気のように「形を持たず、どこまでも続くもの」を、どう数学で扱うかは未整理のままだった。ダニエルは、流体をエネルギーという視点でとらえ直すことで、この難題に一本の補助線を引いた。流れが速くなる場所では、運動エネルギーが増えるぶん圧力が下がる。狭い管に水を通すと圧力が落ちる。煙突の上を風が吹くと中の空気が吸い上げられる。ばらばらに見えた現象が、ひとつの式の上で説明できるようになっていった。

『Hydrodynamica』にはもう一つ、見落とされがちな話題が含まれている。第10章では、気体を「微小な粒子の集まり」と仮定し、その粒子の運動の激しさがであり、その衝突が容器の壁を押す力が圧力である、という見方を提示している、と科学史の側からは整理されている。気体分子運動論の、120年以上早く現れた先駆的記述である。19世紀のマクスウェルやボルツマンが整える以前に、すでに種は撒かれていたとも言える。

3. 父ヨハンの『Hydraulica』と、偽の出版年

『流体力学』の出版から数年後、奇妙な本が世に出る。父ヨハン・ベルヌーイによる『Hydraulica』である。出版されたのは1742年だが、その表題ページには「1732年に書かれた」と明記されていた、と科学史側は記述している。息子の本(1738年)より6年早く完成していた、という主張だ。

しかし内容を読むと、息子ダニエルの『Hydrodynamica』と重なる議論が随所に登場する。出版された順序からすれば、父が息子の成果を後から取り込んだようにも読める。事実関係は完全には確定していないものの、複数の科学史の整理では、父の出版年表記は実際の執筆時期と一致しない可能性が高く、息子の発見の優先権を奪うための偽装だった――との見方が広く紹介されている。

ヨハンは当代きっての数学者で、若き日のオイラーの師でもあった。同時に、優先権争いに執着する人物としても知られていた。兄ヤコブと「最速降下線問題」をめぐって公開論争を続け、ヤコブの死後にもその業績を貶める発言を残している。息子ダニエルとも、ベルリン科学アカデミーの賞を分け合ったことをきっかけに関係が冷え、最終的には1734年、ダニエルがサンクトペテルブルクからバーゼルに戻った後、二人の関係はほぼ修復不能になったとされる。

ダニエル自身は晩年、「父は私を自分の発見の盗用者として扱った」と語ったと伝えられている。優先権を主張するための偽の出版年。当時の学界の慣行を考えても、踏み越えた一線だったと評する科学史家は多い。

4. 翼の揚力、ピトー管、配管 ――いまも回り続ける式

それでも、ベルヌーイの定理は残った。

飛行機の翼が浮く仕組みを大づかみに説明するとき、教科書はしばしばこの式を引く。翼の上面は下面より長く、空気の流れがわずかに速くなる傾向がある。流れが速い側では圧力が下がる――その差が揚力を生む、という説明だ(厳密には流れの曲がりや循環の議論が必要で、ベルヌーイだけでは翼の挙動を説明し尽くせないとする解説も多い)。それでも、「速い側で圧力が下がる」という視点は、揚力理解の入口として、いまも生きている。

応用は航空に限らない。

288年前の一冊の本に書かれた式が、いまも空を飛び、水を運び、火を吹き、霧を散らしている。式そのものは、たった一行で書ける。

「もしも」の問い

もし1742年、父ヨハンが『Hydraulica』に「1732年執筆」という表記を入れていなかったら――。

優先権の物語はいまよりずっとシンプルで、「ベルヌーイの定理」という呼び名にも、誰の影もよぎらなかったかもしれない。あるいは、もし父との確執がなかったら、ダニエルはもっと長く流体の研究を続け、19世紀を待たずにナビエ・ストークス方程式のような粘性流れの記述にまで踏み込んでいたかもしれない。

科学史は、必ずしも「最初に発見した人」「もっとも遠くまで考えた人」だけのものではない。家族のなかで起きた小さなねじれが、一冊の本の出版年に刻まれ、300年近く経ったいまも、教科書の脚注のなかでひっそりと語り継がれている。

流れが速いところでは、圧力が下がる。 そのシンプルな一文の背後に、父と子の、長くて静かな確執の物語がある。


参考・出典

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