もしも研究所

黒太子エドワードとケントのジョアン 二度目の妻が王朝を揺らした話

歴史のあやまち · 2026-01-27 · 約6,600字 · 約13分

これは、14世紀イングランドで起きた、王太子と「すでに二度結婚していた女性」の物語です。 百年戦争の英雄として知られる黒太子エドワード。 そして「ケントの美姫」と呼ばれた、彼の遠縁の従姉ジョアン。 二人の結婚は、当時のヨーロッパ宮廷を相当ざわつかせました。 外交カードを一枚、王家がみずから捨てた——そう受け取られてもおかしくない結婚だったからです。

1. 戦場の英雄、エドワード

エドワード・オブ・ウッドストック——後に「黒太子」と呼ばれる人物は、1330年6月15日、イングランド王エドワード3世とフィリッパ・オブ・エノー王妃の長男として生まれました。 歴代イングランド王の例にならえば、彼が父王の跡を継ぎ、エドワード4世として即位するはずでした。

少年時代から、彼は父王とともに戦場に立っています。 1346年8月26日、わずか16歳で参加したクレシーの戦いでは、フランス軍を相手に前衛の一翼を任されました。 このとき、息子の戦区が押されて援軍を求めてきたのに対し、父エドワード3世が援けを送らなかった、という逸話がよく知られています。 14世紀の年代記作者ジャン・フロワサールが伝えるところでは、王は使者にこう返したとされます——「わが子が生きているかぎり、今日はもう私を呼ぶな。この日の名誉は、あの子のものにしてやれ」。 後世に「少年に拍車を勝ち取らせよ(let the boy win his spurs)」という一句で語り継がれた場面です(「拍車を得る」は騎士の栄誉を自力で勝ち取ることの比喩)。

その後もエドワードは軍歴を重ねます。 1356年9月19日のポワティエの戦いでは、少数の英軍を率いてフランス王ジャン2世その人を捕虜にするという大戦果を挙げました。 黒い甲冑を好んで身につけたことから「黒太子(the Black Prince)」と呼ばれた、という説が広く伝わっています。 ただし、この呼称は同時代の記録には見当たりません。 確かめられる最古の用例は、彼の死から約160年後、16世紀前半の古物研究家ジョン・リーランドの手稿で、印刷物としては1569年のリチャード・グラフトン『年代記大成(Chronicle at Large)』に「ある著者たちは彼を黒太子と呼ぶ」と現れます。 色ではなく「戦場での恐るべき所業ゆえ」とする17世紀の説(ジョン・スピード、1611年)もあり、なぜ「黒」なのかは、実のところ後世の人々にもよく分かっていません。 つまり私たちが親しんでいる勇名は、本人が名乗ったものではなく、後の時代が贈った渾名なのです。

そんな英雄に、政略結婚の話が絶えるはずもありません。 カスティーリャ、フランドル、ブラバント——大陸の主要な王家の姫が、次々と縁組の候補に挙げられました。 王太子の結婚は、対仏戦略の要となる外交カードそのものです。 ところが彼は、30歳を過ぎても独身を貫いていました。 そして選んだ相手が、大陸の王女ではなく、国内の、しかも「二度の結婚歴を持つ」女性だったのです。

2. ジョアンの「複雑な」結婚歴

一方のジョアン・オブ・ケントは、1328年頃、ウッドストック宮殿で生まれました。 父はケント伯エドマンド・オブ・ウッドストック——エドワード1世の末子で、エドワード2世の異母弟にあたる王族です。 ところがジョアンが2歳の頃、1330年3月、父エドマンドは反逆の嫌疑で斬首されてしまいます。 幼くして父を失ったジョアンは、王宮に引き取られて育ちました。

長じて「ケントの美姫(the Fair Maid of Kent)」と称された美貌の持ち主で、宮廷でも評判の女性でした。 しかし彼女の結婚歴は、当時の貴族女性の中でも群を抜いて込み入っています。

始まりは1340年頃。 12歳前後のジョアンは、26歳の騎士 トマス・ホランド と、周囲に秘して結婚しました。 教会の儀式は経ていたものの、身分の高い者に必要な国王の許可を得ない「私的婚姻」でした。 ところがホランドが従軍で長く大陸に留守にしている間に、ジョアンの家族は彼女を別の貴族 ウィリアム・モンタギュー(後のソールズベリー伯)と再婚させてしまいます。 ジョアンはまだ10代半ば。 最初の結婚を打ち明けられたのかどうかも定かでないまま、二度目の夫のもとに置かれました。

戦地から戻ったホランドは、これを黙って見過ごしませんでした。 1347年、彼は教皇庁に「自分こそがジョアンの正式な夫であり、婚姻は成立し、床入りも済んでいる」と訴え出ます。 審理の末、1349年11月13日、教皇クレメンス6世は教書をもってジョアンとモンタギューの婚姻を無効と裁定しました。 ジョアンは正式にホランドの妻へと戻され、二人の間には数人の子が生まれます。

そのトマス・ホランドが1360年に世を去ると、ジョアンは32歳前後で未亡人となりました。 この時点で彼女は、二度の結婚と、「私的結婚」と「教会公認婚」をめぐる教皇庁の裁定をくぐり抜けた女性です。 未来の王妃候補として見れば、これは決して穏当な経歴ではありませんでした。

3. 黒太子の決断

ホランドの死から1年後、1361年。 黒太子エドワード(31歳)は、ジョアン(33歳前後)との結婚を決意します。

問題は、いくつも積み重なっていました。

第一に、血縁です。 二人はともにエドワード1世の血を引く近親で、黒太子の祖父エドワード2世とジョアンの父エドマンドは異母兄弟の間柄でした。 これは教会法が結婚を禁じる親等にあたり、教皇の特別許可(婚姻障害の免除)が要ります。 やっかいなことに、障害は血縁だけではありませんでした。 黒太子は、ジョアンとホランドの間に生まれた息子トマスの名づけ親(代父)でもあったのです。 代父・代子の関係は「霊的親族」とみなされ、これもまた結婚の障害になりました。 このため、二人の縁組には複数の特免が必要だったと伝えられます。

第二に、ジョアンの過去です。 「ホランドの未亡人」で「ソールズベリー伯と無効婚」という経歴は、宮廷の保守的な感覚からすれば異例中の異例でした。 第三に、政治的な損失です。 本来なら対仏戦略の切り札となるはずの結婚を、国内の、しかも二度の結婚歴がある女性に費やす——王家として、これは大きな機会損失でした。

それでも黒太子は、ジョアンを選びました。 父エドワード3世は当初難色を示したとも伝えられますが、最終的には認めます。 教皇インノケンティウス6世も、特免を与えました。 ただし、ただでは済みません。 破門の罰を免れる代わりに、二人は贖罪のしるしとして礼拝堂を建立し、寄進せよ——という条件が課されたのです。 これは絵空事ではありませんでした。 黒太子は1362年、カンタベリー大聖堂の地下聖堂に司祭二人を置く**贖罪礼拝堂(チャントリー)**を創建し、その維持のためサリー州ヴォクソールの荘園を大聖堂参事会に寄進します。 礼拝堂は1363年に完成しました。 今日も「黒太子のチャントリー」として大聖堂のクリプトに残る、この結婚の物証です。

1361年10月6日、二人はまずランベスで、カンタベリー大主教サイモン・アイズリップの立ち会いのもと、公に婚約の誓いを交わしました。 そして同月10日、ウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂で正式に結婚します。 翌1362年、エドワード3世は黒太子にフランス領内の アキテーヌ公国 を新設して与え、夫婦はボルドーに居を定めました。 ジョアンは「アキテーヌ公妃」として、大陸の宮廷生活を始めることになります。

4. リチャードの誕生と黒太子の早逝

ボルドー時代に、二人の間には二人の息子が生まれました。 長男 エドワード・オブ・アングレーム は1365年1月27日生まれ。 そして次男 リチャード・オブ・ボルドー が、1367年1月6日に生まれます。 このリチャードが、後のイングランド王 リチャード2世 です。

しかし、幸運は長く続きませんでした。 1367年、黒太子はピレネーを越えてスペインへ遠征します。 カスティーリャ王ペドロ1世(「残酷王」と呼ばれた人物)を、王位を奪った異母弟エンリケから復位させるための出兵でした。 同年4月3日のナヘラの戦いで、黒太子は鮮やかな勝利を収め、ペドロを王座に戻します。 けれども、その代償は破滅的でした。 遠征中に軍は疫病に襲われ、「イングランド兵の五人に一人は故国に戻れなかった」と語り継がれるほどの損害を出したのです。 黒太子自身もこの遠征で健康を害し、以後、二度と回復することはありませんでした。 莫大な戦費による負債も、彼の晩年に重くのしかかります。

病名は長らく赤痢とされてきましたが、近年の医史学では、慢性の腎炎や別の慢性疾患を疑う見方も出ており、確定したとは言いがたいのが実情です。 いずれにせよ、スペインの陣中で得た病が、この英雄をゆっくりと蝕んでいったことは間違いありません。

そして、跡取りにも不幸が訪れます。 長男エドワード・オブ・アングレームは、1370年頃、疫病(ペストと伝えられます)により5歳で夭折しました。 これにより、王位継承の列の先には、まだ幼いリチャードだけが残されることになります。

1376年6月8日、黒太子はロンドンのウェストミンスター宮殿で亡くなりました。 享年45。 父エドワード3世より1年早い死でした。 遺体は同年9月、遺言どおりカンタベリー大聖堂のトリニティ礼拝堂に葬られます。 金銅の甲冑姿の彫像が横たわる、あの有名な墓です。 墓の上には、彼の兜・盾・籠手・陣羽織(ジュポン)といった 武具一式(アチーブメンツ) が掲げられました。 現在そこに架かるのは1950年代の複製で、実物は近くのガラスケースに保管されていますが、後の調査で、その陣羽織は生前に本人が実際に着用したものと分かっています。

この死は、王朝に大きな空白を穿ちました。 本来なら王になるはずだったエドワードが、父より先に逝った——それは、次の王位が、まだ9歳のリチャードに渡ることを意味していたのです。 1377年6月、エドワード3世が崩御し、10歳のリチャード2世が即位します。 ジョアンは、すでに幼い王の母となっていました。

5. 母としてのジョアン、そしてその後

未亡人となったジョアンは、ロンドンに戻り、息子リチャードの若年期に大きな影響力を持ちました。 その存在感を象徴するのが、1381年の 農民一揆(ワット・タイラーの乱) の一場面です。

反乱の最中、ロンドンへ戻ろうとしていた王母ジョアンは、街道の途中で暴徒の群れに出くわしました。 フロワサールの伝えるところでは、彼女は嘲弄されはしたものの、危害は加えられずに通されたといいます。 さらに劇的なのは、ジョアンがロンドン塔に避難した後の場面です。 塔に押し入った反乱者たちは、王の寝台に腰かけて戯れ、王母に「口づけを」と迫ったと記されます。 「ケントの美姫」と謳われた美貌の王母は、その無遠慮な振る舞いに気を失い、従者たちに運び出された——年代記はそう描いています。 かつての美姫は、このとき50代の半ばを過ぎていました。

ジョアンは1385年8月、57歳前後で亡くなります。 遺言状を書いたのが8月7日、その数日のうちに、おそらくウォリングフォード城で息を引き取ったとされます。 晩年の彼女は、息子リチャード2世と、前夫ホランドとの間の子たちとの確執に心を痛めていたと伝えられます。 そして、その最期の望みは、少し切ないものでした。 彼女は、王妃として黒太子と並んで眠ることを選ばず、最初の夫トマス・ホランドの傍らに葬られることを遺言したのです。 その墓は、リンカンシャーのスタンフォードにあったグレイフライアーズ(フランシスコ会修道院)に置かれました。 教皇庁にまで持ち込んで自らの手で守り抜いた最初の結婚——ジョアンは、死にあたってそこへ帰っていったことになります。

残された息子リチャード2世は、後に治世の混乱から1399年に廃位され、翌年に世を去りました。 これもまた、波乱の生涯でした。

6. あやまちは、誰のものだったか

黒太子とジョアンの結婚を「あやまち」と呼ぶかどうかは、立つ場所によって答えが変わる類の話だと思います。

外交カードを失った王家の側から見れば、対仏戦略上の損失は確かにありました。 血縁と霊的親族という二重の障害を教皇の特免で押し切り、贖罪の礼拝堂まで建てて成立させた結婚は、宮廷の保守派に少なからぬ不満を残したはずです。 そして結果として、夫の早逝と幼王の即位という流れが生まれ、それが後の王朝動乱——ひいては薔薇戦争へと続く不安定さ——の遠因のひとつになった、という見方も成り立ちます。

一方、当事者の二人の側から見れば、風景はまるで違います。 ジョアンは10代で意に沿わぬ再婚を強いられ、それでも最初の結婚を諦めず、教皇庁にまで持ち込んで認めさせた女性でした。 黒太子は、大陸の姫君という「正解」を退けて、その彼女を選びました。 外交の損得の物差しで測れば愚行でも、二人にとっては、おそらく望んで手にした結婚だったのです。

歴史の if としてしばしば語られるのは、「もしも黒太子が長生きして王位に就いていたら、あの動乱は避けられたか」という問いです。 けれど本当に王朝を揺らしたのは、この結婚そのものではなく、スペインの陣中で拾った病と、夫の早すぎる死、そして幼い息子の即位という連鎖でした。 二人が選んだのは相手だけで、寿命までは選べなかった。 「あやまち」があったとすれば、それは誰かの判断の誤りというより、望んだ幸福の裏側に、思いもよらぬ形で仕込まれていた時限装置のようなものだったのかもしれません。

この題材をもう少し深掘りする

同時代の手触りは、年代記に当たると一変します。 クレシーで父王が息子を突き放す場面も、1381年の乱で王母ジョアンが暴徒に囲まれる場面も、フロワサールの『年代記』が生々しく書き残しています。 黒太子の生涯を一冊で追うなら、リチャード・バーバーの評伝が定番です。


🌀 もしも、黒太子がスペインへ行かなかったら?

ナヘラの戦いは、外交的にはほとんど実を結ばず(復位したペドロ1世は数年後に暗殺されます)、黒太子には病と負債だけを残しました。 もし彼があの遠征を選ばず、健康なまま父より長く生きていたら——王位はリチャードでなくエドワード自身のものになり、成人した王が海千山千の議会と諸侯を相手取っていたでしょう。 歴戦の英雄が王冠をかぶった世界線では、少なくとも「10歳の王」という致命的な空白は生まれなかった。 けれど歴史は、勝利の遠征のただ中で、目に見えない病という一手を指しました。 私たちが「黒太子の悲劇」として記憶しているのは、戦いに負けた男の話ではありません。 勝ちすぎた戦いの陣中で、勝者だけが持ち帰った病が、王朝の時計をひそかに早めてしまった——そういう静かなあやまちの話なのです。


主な参考文献

本記事は note では公開していない、The IF Lab サイト独占コラムです。

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