黒太子エドワードとケントのジョアン 二度目の妻が王朝を揺らした話
歴史のあやまち · 2026-08-13 · 約3,118字 · 約6分
これは、14世紀イングランドで起きた、王太子と「すでに二度結婚していた女性」の物語です。 百年戦争の英雄として知られる黒太子エドワード。 そして「ケントの美姫」と呼ばれた、彼の従妹ジョアン。 二人の結婚は、当時のヨーロッパ宮廷を相当ざわつかせたと言われます。
1. 戦場の英雄、エドワード
エドワード・オブ・ウッドストック——後に「黒太子」と呼ばれる人物は、1330年6月15日にイングランド王エドワード3世とフィリッパ王妃の長男として生まれました。 歴代イングランド王の例にならえば、彼が父王の跡を継ぎ、エドワード4世として即位するはずでした。
少年時代から、彼は父王とともに戦場に立っています。 1346年、わずか16歳のときに参加したクレシーの戦いでは、フランス重騎兵団を相手に最前線を任され、見事に守り抜きました。 父王が「援軍を求められたが送らなかった——息子に勲を立てさせるためだ」と返したという有名な逸話が残るのも、この戦いです。
その後も、ポワティエの戦い(1356年)でフランス王ジャン2世を捕虜にするなど、彼の軍歴は華々しいものでした。 黒い甲冑を好んで身につけたことから「黒太子」(the Black Prince)と呼ばれるようになった、とされる説が広く伝わっています(ただしこの呼称が定着したのは、彼の死後しばらく経ってからとも言われます)。
そんな英雄としてのエドワードに、政略結婚の話は当然絶えませんでした。 カスティーリャ王女、フランドル伯爵令嬢、ブラバンド公女——大陸の主要な王女がほぼすべて候補に挙げられたとされます。 ところが彼は、30歳を過ぎても独身を貫いていました。
2. ジョアンの「複雑な」結婚歴
一方のジョアン・オブ・ケントは、1328年生まれ。 エドワード3世の従姉妹にあたります(つまり黒太子の従妹)。 父はケント伯エドマンドという王族で、ジョアンは幼くして父を処刑で失っており、王宮内で育ったという背景がありました。
「ケントの美姫」(the Fair Maid of Kent)と呼ばれる美貌で、宮廷でも評判の女性でした。 ただ、彼女の結婚歴は、当時の貴族女性の中でも相当異例だったとされます。
1340年頃、12歳前後のジョアンは、若き騎士 トマス・ホランド と密かに結婚しました。 正式な教会儀式は経ていたものの、両家への報告がないままの「私的婚姻」でした。 ところがホランドが従軍で長く不在の間に、家族はジョアンを別の貴族 ソールズベリー伯ウィリアム・モンタギュー と再婚させてしまいます。 ジョアン本人は10代半ばで、強く抵抗できる立場ではなかった、と伝えられます。
数年後、戦地から戻ったホランドは、教皇庁に「自分こそが正式な夫である」と訴え出ました。 1349年、教皇クレメンス6世はこれを認め、ジョアンとソールズベリー伯の婚姻は無効とされます。 ジョアンは正式にホランドの妻として戻り、二人の間には数人の子をもうけます。
そのトマス・ホランドが1360年に死去。 ジョアンは32歳前後で未亡人となりました。 この時点で、すでに二度の結婚と、「私的結婚」と「教会公認婚」をめぐる教皇庁の裁定を経た女性となっていたわけです。 当時の貴族社会では、これは決して標準的な経歴ではありませんでした。
3. 黒太子の決断
ホランドの死から1年後、1361年。 黒太子エドワード(31歳)は、ジョアン(33歳)との結婚を決意します。
問題はいくつもありました。
ひとつは血縁。 二人は従兄妹同士で、教会法では結婚に教皇の特別許可(婚姻障害の免除)が必要でした。 もうひとつは、ジョアンの過去の結婚歴。 「ホランドの未亡人」「ソールズベリー伯と無効婚」という経歴は、未来の王妃となる女性として、当時の宮廷の感覚では異例中の異例だったとされます。 さらに、政治的損失も無視できません。 黒太子の結婚相手は本来、対仏戦略上の重要な外交カードのはずでした。 それを「国内の従妹で、しかも二度の結婚歴がある女性」に費やすのは、王家として大きな機会損失だったわけです。
それでも黒太子は、ジョアンを選びました。 父エドワード3世は当初難色を示したと伝えられますが、最終的には認めます。 教皇インノケンティウス6世も、特別許可を与えました。 ただし条件として、二人は贖罪のために教会建設や礼拝堂寄進を行うこと——という追加義務が課されたとされます。
1361年10月、二人はウィンザー城で正式に結婚しました。 そして翌1362年、エドワード3世は黒太子に アキテーヌ公国 をフランス領内に新設し、夫婦はボルドーに居を定めます。 ジョアンは「アキテーヌ公妃」として、大陸の宮廷生活を始めることになりました。
4. リチャードの誕生と黒太子の早逝
ボルドー時代に、二人の間には二人の息子が生まれます。 長男エドワード(夭折)、そして1367年1月生まれの次男 リチャード。 このリチャードが、後のイングランド王 リチャード2世 です。
しかし、夫婦の幸運は長く続きませんでした。 1370年代に入ると、黒太子はスペイン遠征の影響もあって、健康を急速に害していきます。 病名は確定していませんが、赤痢、または当時流行していた病(マラリアもしくは慢性下痢症)とする説が有力とされています。
1376年6月8日、黒太子はロンドンのウェストミンスター宮殿で亡くなりました。 享年45。 父エドワード3世より1年早い死でした。
この死は、王朝に大きな空白をもたらします。 本来なら王太子だったエドワードが、父より先に逝った——ということは、次の王位は、まだ9歳のリチャードに渡ることを意味していました。
1377年6月、エドワード3世が崩御し、10歳のリチャード2世が即位します。 ジョアンは、すでに幼い王の母となっていました。
5. 母としてのジョアン、そしてその後
未亡人となったジョアンは、ロンドンに戻り、息子リチャードの摂政期(若年期)に強い影響力を持ちます。 1381年、イングランド史に有名な 農民一揆(ワット・タイラーの乱)が起きたとき、彼女もカンタベリー巡礼の途中で暴徒に遭遇しました。 ただし暴徒は「黒太子の妻」を尊重し、彼女には危害を加えなかった、と伝えられます。
ジョアンは1385年、57歳前後で亡くなります。 晩年は、息子リチャード2世と、彼女の前夫(ホランド)との子たちとの確執に心を痛めていたとされます。 リチャード2世自身は、後に治世の混乱から1399年に廃位され、翌年に没する——という、これもまた波乱の生涯を送ることになります。
歴史の if としてしばしば語られるのは、「もしも黒太子が長生きして王位に就いていたら、王朝の混乱は避けられたか」というものです。 ジョアンとの結婚自体ではなく、夫の早逝と幼い息子の即位、そしてその後の薔薇戦争の遠因——というところまで含めて、二人の選択は思わぬ方向に波及していきました。
6. あやまちは、誰のものだったか
黒太子とジョアンの結婚を「あやまち」と呼ぶかどうかは、立つ場所によって答えが変わる類の話だと思います。
外交カードを失った王家の側から見れば、対仏戦略上の損失は確かにありました。 血縁問題と「過去のある女性」を妻に迎えたことで、宮廷内の保守派の不満も買ったとされます。 そして結果として、夫の早逝と幼王の即位という流れが、後の王朝動乱の遠因のひとつになった——という見方もあります。
一方、当事者の二人の側から見れば、状況はかなり違います。 ジョアンは10代で意に沿わない再婚を強いられ、教皇庁にまで持ち込んで自分の最初の婚姻を認めさせた女性でした。
