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もしも、クック船長がハワイで殺されていなかったら?

もしも時間 · 2026-05-25 · 約5,800字 · 約12分

1779年2月14日、ハワイ島西岸ケアラケクア湾。

ジェームズ・クック(50歳)は、岸辺で現地民との交渉の最中に命を落としました。

クックはこの時点で、第三次太平洋航海の途中でした。彼はすでに二度の太平洋航海を終えており、オーストラリア東岸・ニュージーランド・ハワイ(「サンドウィッチ諸島」と命名)など多くの地を「西洋人として初めて記録した人物」として知られていました。

ケアラケクア湾での衝突の直接の原因は、ハワイ側による小舟の盗難と、クックがカメハメハ一世の父でもあったハワイ首長カロアノプを人質にしようとしたことにあったとされます。混乱の中で群衆に囲まれ、クックは浜辺で刺殺されました。

ここで、本記事の「もしも」を立てます。

もしクックが1779年2月14日のケアラケクア湾での衝突を回避し、艦隊とともにイギリスへの帰還を果たしていたなら——太平洋の地図、ハワイの歴史、そして大英帝国の太平洋政策はどう書き直されていたか?

🌀 The IF Lab 編集部より:

本記事は、クックが1779年2月14日に死亡したという史実を踏まえた上で、その衝突を回避した場合の反実仮想を行います。あくまで 1779年2月の分岐点 にだけ手を入れるシナリオです。


1. 実際に起きたこと(史実の確認)

クックの三度の航海

ジェームズ・クック(1728〜1779年)は、ヨークシャーの農民の家に生まれ、独学で航海術と測量を習得した人物です。

第一次航海(1768〜1771年):ニュージーランドとオーストラリア東岸を測量・記録し、南半球に大陸が存在するという仮説(テラ・アウストラリス・インコグニタ)の検証を目的とした航海。タヒチ・ニュージーランド・オーストラリアを記録し、英国王立協会と海軍から高い評価を受けました。

第二次航海(1772〜1775年):南極海まで到達し、「未発見の大陸」が南極圏内にあるとすれば近づけないほど寒冷であることを確認。事実上、テラ・アウストラリスの神話を否定した航海でもありました。

第三次航海(1776〜1779年):北太平洋での北西航路(アジアとヨーロッパをつなぐ北極海経由の航路)の探索を主目的としていました。この航海でハワイを「発見」(正確には西洋人として初記録)し、北米西岸を測量してベーリング海峡まで到達しています。

ケアラケクア湾での死

1778〜1779年にかけて、クックの艦隊はハワイに二度寄港しました。

最初の寄港(1778年)では、ハワイ先住民との関係は比較的穏やかでした。クックがロノ神(豊穣の神)の帰還と信じられた可能性についての議論は、後の人類学者の間で長く続いているテーマですが、確定的な証拠はなく、「そう信じられた」という解釈は後代の研究による推測を含みます。

問題が起きたのは二度目の寄港(1779年1〜2月)です。

嵐で船のマストが損傷し、修理のために再寄港したこの時期、ハワイ側との緊張が高まっていました。船具の盗難が続いており、クックの対応は前回より強硬だったとされます。

2月14日朝、別の場所で起きた衝突でイギリス兵が死亡したことへの報復として、クックはカロアノプ首長を人質にしようとしました。岸辺で交渉が行き詰まり、群衆が囲む中、刺殺されました。


2. 分岐点——1779年2月の「もしも」

IFの前提

1779年2月14日、クックが強硬な人質作戦を断念し、艦隊に引き上げの合図を出していたなら——その後の外交的修復の可能性はあったか?

クックが採った「首長を人質にして交渉する」という手法は、彼が過去の航海でも用いたことのある外交手段でした。ただしケアラケクア湾の状況は、①前回とは異なる緊張状態、②大規模な群衆の存在、③退路が海側のみという地形的制約——と、過去より条件が悪かった。

艦隊の他の将校が後に「なぜ引き上げなかったのか」と疑問を呈した記録も残っています。

変化の条件:「クックが人質作戦を中止し、ボートに戻った」という想定です。その場合、即時の生命の危険は回避できた可能性が高い。

変化の確率


3. 世界はどう変わるか

短期(1779〜1780年):クックの帰還と北西航路

クックが1779年に生還し、北西航路探索という第三次航海の本来の目的を終えてイギリスに戻ったとすると、最初に確定する成果は何か。

北西航路は結局、1778年の探索でクックが「現実的ではない」と判断していました。ベーリング海峡は通過できたが、北極海の氷が夏でも厚く、木造船での通過は不可能と結論づけていたのです。帰還した彼は、この結論を報告書としてまとめ、英国海軍の北西航路政策に影響を与えたはずです。

史実では、北西航路の存在は19世紀まで「謎」として残り、多くの探検家が命を落としました。クックの「困難」という報告が早期に確定していれば、その後の探索への投資規模が変わっていた可能性があります。

中期(1780年代〜1790年代):ハワイの歴史

クックの死後、英国はハワイとの関係を慎重に再構築することになりました。一方でハワイの歴史は、クックの死とほぼ同時期に進行していたカメハメハ1世による統一過程によって動いていきます。

カメハメハ1世(1758?〜1819年)は、英国との接触から得た火器・艦船技術を活用して1795年頃にハワイ諸島のほぼ全域を統一し、ハワイ王国を建設しました。

もしクックが生還していたなら:

ただしカメハメハ1世の統一という大きな流れは、クックの生死に関わらず進行したはずです。ハワイ内部の政治力学は西洋の介入よりも先行していました。

長期(19世紀):太平洋の地図と植民地主義

クックが生還していた世界線での最も大きな影響は、太平洋の地図と情報の集積が、数年単位で早まっていた可能性です。

クックの第三次航海の記録は、彼の死後に副指揮官らによって編纂されました。クック自身が帰還して記録をまとめていたなら、太平洋の詳細な地図と民俗誌的記録が、より体系的な形で1780年代のヨーロッパに届いていた可能性があります。

英国の太平洋政策、オーストラリア植民地化(1788年のボタニー湾入植)は、クックの第一次・第二次航海の記録が基礎になっています。クックが生存していれば、オーストラリア入植の判断に直接関与していた可能性もあります。


4. なぜ史実では死んだか(リアリティチェック)

クックの死には、いくつかの要因があります。

第一に、長期航海の疲弊:三度の大規模太平洋航海は、精神的・肉体的に過酷なものでした。第三次航海後半のクックは、判断が以前より硬直化していたという部下の証言があります。

第二に、情報の誤算:過去の航海でハワイ先住民との関係が良好だったため、緊張の高まりを過小評価した可能性。

第三に、地形的不利:岸辺での交渉という状況は、退路が限られた状態でした。


5. ありえた世界線——もう一つの『1779年以降』

仮に、クックがケアラケクア湾を生還し、イギリスへ帰還していたとしたら——

ただし、英国の植民地主義的拡張という大きな流れ、ハワイの王国統一という内政的動態は、クックの生死とは独立した力学で動いていたと見るのが妥当です。


6. 最後の問い

クックの死は、ある意味で象徴的な終わり方でした。

「文明と原住民の接触」という大航海時代の本質的な問題——搾取か共存か、力か対話か——を、クック自身の死が体現しているとも言えます。

後世の評価において、クックは「偉大な探検家」であると同時に「植民地主義の先駆者」として批判されることもあります。オーストラリアやニュージーランドでは、その評価をめぐる議論が今も続いています。

生き延びたクックが、その後の太平洋政策にどのような姿勢で関わったか——それもまた、わからないことです。


この「もしも」を、別角度で楽しむ

クックの航海と太平洋史を扱った作品・書籍が多数あります。


🌀 編集部メモ:

本記事は反実仮想(歴史IF)です。事実関係はクックの航海日誌・英国海軍記録・現代の太平洋史研究を参照していますが、解釈・推論部分は The IF Lab 編集部の独自整理です。諸説あります。

📚 諸説ある題材です

ケアラケクア湾での衝突の詳細、クックが「ロノ神」と信じられていたかどうか、クックの晩年の精神状態——いずれも研究者の間で諸説あります。「ロノ神」説は特に人類学的な論争が長く続いている問題です。


🌀 The IF Lab|もしも研究所 歴史・特許・人間ドラマの事実をベースに、 反実仮想で世界を覗き見る研究所です。

更新は不定期です。土曜は看板「もしも時間」(月例特別号)をお届けします。


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