もしも研究所

デューイ十進分類法 ――1876年、22歳の青年が知識を10の数字に畳んだ

もしも時間 · 2026-06-08 · 約2,500字 · 約6分

世界中の本を、たった10の数字に畳めるだろうか。 1876年、ひとりの22歳の青年が、たぶん本気でそう考えました。 その小さな思いつきは、150年後のデータベースの裏側にまで、静かに残っています。

1. アマーストの学生司書

メルヴィル・ルイス・カッセルティ・デューイ(Melvil Louis Kossuth Dewey, 1851-1931)は、米国ニューヨーク州アダムズセンターの貧しい家に生まれたと伝えられています。少年期から「世界を効率よく整理し直したい」という強い欲望を持っていたといわれ、まだ十代のうちから、メートル法の普及や英語綴字の簡略化に強い関心を寄せていました。のちに自分の名前さえ「Melville」から「Melvil」へと、不要な文字を削るように改めています。

1870年、デューイはマサチューセッツ州のアマースト大学(Amherst College)に入学し、在学中の1873年から74年にかけて、大学図書館で学生司書として働き始めます。22歳から23歳にかけての時期です。当時の図書館は、本に固定の棚番号を振って「ここから動かさない」スタイルが主流でした。新しい本が入れば最後尾に積み、古い本を入れ替えれば番号がずれる。利用者にも司書にも、扱いやすいものではなかったとされます。

学生司書のデューイが直面したのは、その地味で根の深い問題でした。彼自身ののちの回想によれば、ある日曜の朝、教会の説教を聞きながら、棚そのものに番号を振るのではなく、本の内容(主題)に番号を振るという発想がひらめいたといいます。固定棚番号から、主題ベースの「相対配置(relative location)」への転換です。本がどの棚に置かれても、番号さえ同じなら、同じ場所に並ぶ。図書館は「本の倉庫」から「知識の地図」へ変わりうる、という構想でした。

2. 1876年、44ページの初版

ひらめきから数年、デューイは構想を一冊の小冊子にまとめます。1876年、彼が25歳になる年に刊行された『A Classification and Subject Index for Cataloguing and Arranging the Books and Pamphlets of a Library』が、デューイ十進分類法(Dewey Decimal Classification, DDC)の初版です。本文わずか44ページ前後、しかも著者名を伏せた匿名出版でした。地味で控えめな船出だったといわれます。

中身の骨格は、いまの版ともほとんど変わりません。あらゆる知識を、まず10の大きな箱に分けます。

そして、それぞれの大箱をまた10に分け、さらにその中をまた10に分けていく。三桁の数字でまず大まかな位置を決め、小数点以下を足して、ピンポイントまで絞り込みます。たとえば「500(自然科学)」のうち「510(数学)」、その中の「516(幾何学)」、さらに「516.3(解析幾何)」、というように。10進法と入れ子の組み合わせで、理論上はいくらでも深く分岐させられる設計です。

この発想自体には、フランシス・ベーコンの学問分類など先行例があったとされます。デューイの新しさは、それを数字一本で運用可能なフォーマットにまで落とし込んだ点にあります。司書も利用者も、頭の中で「ええと、この本はどの分野で…」と都度判断する代わりに、背表紙の数字を比べるだけで位置が決まる。日常運用に耐える「索引言語」を、25歳前後の青年が紙の上に組み上げてみせた格好です。

その同じ1876年10月、デューイはフィラデルフィアで開かれた会議に出席し、米国図書館協会(American Library Association, ALA)設立の中心メンバーのひとりとなります。さらに同年、業界誌『Library Journal』が創刊され、デューイは初代編集長を務めたとされます。分類法・職能団体・専門誌を、ほぼ同じ年にまとめて立ち上げた計算です。「図書館を職業として制度化する」という、大きな運動の一年だったといえます。

3. 図書館学の制度化と、暗い影

1883年、デューイはコロンビア大学の初代司書(Chief Librarian)に就任します。1887年には、世界初の本格的な図書館員養成機関「School of Library Economy」を同大学に開校。この学校は当時としては画期的に女性の入学を認めたことで知られ、近代以降の図書館職が女性比率の高い専門職として形作られていく出発点のひとつにもなったとされます。1889年にはニューヨーク州立図書館長へ移り、州レベルの図書館ネットワーク整備にも関わっていきます。

一方で、デューイの素顔には、現代の目から見ると擁護しがたい部分も少なくありません。1895年、彼はニューヨーク州北部のレイクプラシッドに会員制の保養施設「Lake Placid Club」を設立しますが、ユダヤ人や黒人、特定の宗派の人々を会員から排除する露骨な差別的規約を採用していたと伝えられています。さらに、女性同僚への性的ハラスメントに関する複数の告発も繰り返され、1905年頃には図書館界の主要な役職から事実上追放される事態となりました。米国図書館協会は2019年、デューイの名を冠した最高賞「Melvil Dewey Medal」から彼の名を外す決定を行ったと報じられています。

分類法そのものにも、時代の偏りが色濃く残っていることは、しばしば指摘されてきました。たとえば「200(宗教)」は、長らく大半の枝がキリスト教に割かれ、他宗教は少数の番号に押し込まれていました。「中立的に見える数字」が、実は当時の英米プロテスタント世界の世界観をそのまま固定化してしまっている、という批判です。OCLC(DDCを現在管理する組織)は版を重ねるたびにこうした構造の見直しを続けていますが、十進という枠そのものが持つ限界もあるとされます。

それでも、DDCの普及はとどまりませんでした。1929年、第12版から正式に「Dewey Decimal Classification」という名称が前面に出るようになります。20世紀を通じて世界の図書館に広がり、現在では世界の135カ国以上、約20万館で使われているとされます(OCLC公表値ベース)。日本では「日本十進分類法(NDC)」がDDCを下敷きにして1928年に成立しており、私たちが学校図書室で見慣れた「913.6」「007.6」といった番号も、その系譜の上にあります。

4. 100年後のデータベースへ

DDCの影響は、図書館の棚の外にもにじみ出ています。「知識を階層的な数字で表現し、機械でも人でも同じように扱える」という発想は、20世紀後半以降の情報検索やデータベース設計の前提と、よく似ています。書誌情報を機械可読化したMARC、ISO/UDC分類、図書館目録のオンライン化(OPAC)――いずれも、デューイの「主題に番号を振る」という考え方と地続きの、図書館分類・書誌管理の発想に連なるものと見ることができます(なおISBNは主題分類ではなく個々の本を識別する別系統の番号制度で、発想の系譜とは区別されます)。

DDC自体も、紙の分厚いマニュアルから電子サービスへと姿を変えてきました。第23版(2011年)以降は、随時更新されるオンライン版「WebDewey」が主役になり、新しい主題(情報技術、ジェンダー、気候など)は、紙の改訂を待たずに反映されていくとされます。番号体系という骨格は維持したまま、運用面ではほぼ「ライブの分類データベース」へと進化しているわけです。

22歳の学生司書が、教会の長椅子で思いついたメモは、こうして150年近く生き延びました。完璧でもなければ、政治的に潔白でもない仕組みです。それでも、これだけ長く、これだけ広く使われ続けた索引言語は、ほとんど例がありません。

「もしも」の問い

もしデューイが、あの日曜の説教中にメモを取らなかったら――。 それでも誰かがいずれ似た仕組みを考えたかもしれません。けれど、「ALAの設立」「専門誌の創刊」「養成校の開校」を同じ時期にまとめてやり切る人物がいなければ、図書館という職業の輪郭は、もっとぼんやりしたものになっていたかもしれない、ともいわれます。

そして、もしDDCがもう少し違う設計だったら――。 私たちが「913.6」と聞いて思い浮かべる、あの図書室の床の匂いも、少し違っていたかもしれません。

人を整理することと、知識を整理することは、似ていて、まるで違います。 レイクプラシッドのクラブは、人を不当に「分類」して傷つけました。 同じ人物が作った数字の体系は、いまも世界の本棚の上で、静かに本を並べ続けています。 そのねじれごと、デューイ十進分類法は、まだ私たちの手元にあります。


参考・出典

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