ハン・ファン・メーヘレン 自らフェルメール贋作と証明した男 ――ナチスを騙すことが正義になった日
偽物の博物館 · 2026-05-03 · 約3,100字 · 約8分
自分が描いた絵を「これは贋作だ」と、必死に証明しようとした画家がいました。 そうしなければ、反逆罪で死刑になりかねなかったからです。
1. 批評家に認められなかった画家
ハン・ファン・メーヘレンは、1889年にオランダ東部のデーフェンテル(オーフェレイセル州)に生まれた画家でした。若い頃は古典的な技法に長け、ハーグの画壇でそれなりの評価を得て、肖像画家として暮らしを立てていたとされます。
しかし、20世紀前半の美術界の主流は、すでに印象派からキュビスム、表現主義へと大きく舵を切っていました。古典写実の腕を磨き続けるメーヘレンの画風は、評論家たちから「時代遅れ」「独創性がない」「単なる模倣家」と繰り返し酷評されます。なかでも彼を深く傷つけたのは、当時のオランダ画壇で力を持っていた批評家たちが、彼を「過去の真似事しかできない男」と切り捨てたことだったと伝えられています。
その鬱屈が、彼を別の方向へ向かわせました。 「自分の作品をけなす批評家たちが、もし古典そのもの——たとえばフェルメールの『新発見』を目の前にしたら、絶賛するのではないか」。研究者によれば、復讐心と承認欲求が複雑にもつれ合った動機だったとされます。
標的に選んだのは、寡作で知られる17世紀オランダの巨匠ヨハネス・フェルメール。確認されている作品が数十点しかない画家だからこそ、「未知の作品」を信じさせる余地がありました。
2. 専門家を欺いた「新発見のフェルメール」
メーヘレンの準備は周到でした。 17世紀当時に近い材料を集めるため、古い時代の二束三文の絵画を買い集めてキャンバスや木枠を流用し、画面を一度削り落としたうえで描き直す。顔料は古典の処方に倣い、ベークライト系の樹脂を媒材に混ぜて加熱することで、何世紀もかけて起こるはずの硬化と亀裂を、人為的に再現したとされます。表面に細かいひびを走らせ、その隙間に古いインクを染み込ませて「歳月の汚れ」まで作り込む——文献研究と化学知識を総動員した、執念の偽装でした。
当時の鑑定技術は、現代から見ればまだ発展途上でした。X線撮影による下層の解析は1930年代に普及しつつありましたが、顔料の同位体分析や非破壊の高精度分析が一般化するのは、戦後しばらく経ってからのことです。様式判断と来歴(プロヴェナンス)、そして経験豊富な鑑定家の「目」が、ほとんど唯一の決め手でした。
特にメーヘレンが狡猾だったのは、フェルメールの作品のなかでも「宗教画」というほとんど作例のないジャンルを選んだことだとされます。フェルメールの真作はカラヴァッジョ派の影響をうかがわせる初期作品が残されており、「もし若き日のフェルメールが宗教画を本格的に描いていたら」という、専門家の頭の中にだけある仮説の隙間を、メーヘレンは正確に突きました。新発見の作品が、研究者がうすうす期待していた「ありえたフェルメール」とぴたりと重なるとき、人は驚くほどあっさり「本物だ」と認めてしまう——後年、複数の美術史家がそう振り返っています。
1937年、メーヘレンは『エマオの食事(エマオの晩餐)』を世に出します。この作品は、当時のオランダで最高権威とされていた美術史家アブラハム・ブレディウスにより、「フェルメール初期の宗教画として疑う余地のない傑作」と鑑定されました。ブレディウスは雑誌に高揚した寄稿文を寄せ、絵はロッテルダムのボイマンス美術館がきわめて高額——当時の貨幣価値で約52万ギルダーとも伝えられる金額——で購入します。
見返したかった批評家たちが、彼の「フェルメール」を絶賛した——。 皮肉な成功でした。 その後もメーヘレンは『最後の晩餐』『キリストと姦淫の女』など、複数の「新発見フェルメール」を市場に流していきます。
3. ナチスの高官の手に渡る
第二次大戦中、彼の「フェルメール」の一枚が、ナチス・ドイツの高官ヘルマン・ゲーリングの手に渡ります。1942年、仲介者を介して『キリストと姦淫の女』が、当時の評価額で約165万ギルダー相当——他のオランダ絵画137点との交換を含む形——でゲーリングのコレクションに収まったとされます。これが、戦後にメーヘレンを窮地へ追い込みました。
1945年5月、オランダが解放されると、ナチスの押収美術品の追跡が始まります。ゲーリングのコレクションから出てきた「フェルメール」の出所をたどると、仲買人を経由してメーヘレンに行き着きました。1945年5月29日、彼は逮捕されます。容疑は「国の至宝であるフェルメールを、敵国の高官に売り渡した」という、**対敵協力(反逆)**でした。当時のオランダ法では、最高刑として死刑が想定される重罪です。
4. 「これは私の贋作だ」
死刑もありうる反逆罪を逃れるため、メーヘレンは告白します。 「あれはフェルメールではない。私がすべて描いた贋作だ。ゲーリングに売ったのは、本物の国宝ではなく、私自身の絵だ」と。
捜査当局は、当初その告白を信じませんでした。フェルメールの傑作を量産できる人物がいるなど、にわかには受け入れがたかったのです。そこでメーヘレンは、約半年にわたる監視下のアトリエで、新たな「フェルメール」——『博士たちのなかの若いキリスト』——を、ジャーナリストや専門家の立ち会いのもとに描いて見せます。古色の付け方こそ再現できなかったものの、構図や筆致は、過去の「新発見フェルメール」とまさに同じ手によるものだと、調査委員会は結論づけました。
1947年10月、アムステルダムで裁判が開かれます。罪状は反逆ではなく贋作・詐欺に切り替わり、彼は懲役1年の有罪判決を受けました。死刑は免れた一方で、彼の心身はすでに長年のアルコール依存と裁判の重圧で消耗していました。判決からわずか2か月後の1947年12月30日、彼は刑の執行を待たずに、心臓発作でこの世を去ります。享年58。
「もしも」の問い
もし戦争がなかったら——彼の贋作は、永遠に「フェルメールの傑作」として美術館に飾られていたかもしれません。 もし鑑定技術がもう少し進んでいたら——『エマオの食事』は最初の段階で偽物と見抜かれ、彼の名は美術史に残らなかったかもしれません。
奇妙なことに、戦後しばらく、オランダの世論の一部は、彼を「ナチスを出し抜いた男」として、半ば英雄視しました。国の宝を敵に渡した売国奴ではなく、敵国の権力者をだまして大金を巻き上げた愛国者だ、という反転です。同じ一枚の絵が、文脈しだいで「至宝」にも「犯罪の証拠」にも「痛快な復讐」にもなりうる——その揺れが、いまもこの事件を語り続けさせています。
現代の美術鑑定は、メーヘレン事件以降に大きく進歩しました。顔料に含まれる鉛同位体の比率分析、樹脂の同定、放射性炭素年代測定、そして近年は機械学習による筆致パターン解析まで——「目」だけに頼らない多層的な検証が当たり前になっています。特に20世紀以降に合成された樹脂や顔料の痕跡は、現代の機器分析ではほぼ確実に検出されるとされ、メーヘレンが使ったベークライト系の媒材も、いまなら最初の段階で疑いを招くはずです。それでも、市場には毎年のように新たな贋作の疑いが持ち上がります。技術が進歩すれば、贋作者の技術もまた進歩する——その追いかけっこは、20世紀最大の贋作事件のあとも続いています。
本物と偽物を分けているのは、絵そのものよりも、それを取り巻く物語のほうなのかもしれません。 誰が、いつ、どんな経緯で見つけ、誰が「本物だ」と請け合うのか。 メーヘレンが本当に欺いたのは、絵を見る目ではなく、その物語のほうだったのです。
本稿は事件の概要を時系列で扱いました。「なぜ最高の鑑定家が騙されたのか」「なぜ戦後の世論は彼を半ば英雄視したのか」という視点は、姉妹記事ハン・ファン・メーヘレン 自らフェルメール贋作と証明した男で扱っています。
