ジョン・ロー パリ・ミシシッピ会社の崩壊 ――1720年、一人の男がフランスを経済破綻させた
もしも時間 · 2026-01-07 · 約3,000字 · 約8分
「ミリオネア(百万長者)」という言葉は、この男の事業のなかで生まれたと言われています。 そして同じ事業が、フランス王国の財政を、根こそぎ揺さぶりました。 ジョン・ローという一人のスコットランド人がパリで仕掛けた壮大な実験は、わずか数年で熱狂と崩壊の両方を見せ、その後の中央銀行論議に長く影を落とすことになります。
1. 放浪のスコットランド人
ジョン・ローは1671年、エディンバラの裕福な金細工師の家に生まれました。 父は両替商も兼ねており、ローは少年期から金利・為替・信用といった概念に囲まれて育ったとされています。 若くしてロンドンに出た彼は、社交界で派手な生活を送るうちに、1694年、エドワード・ウィルソン(通称「ボー・ウィルソン」)との決闘で相手を死なせ、殺人罪で有罪となりました。決闘の動機については女性をめぐる確執など諸説があります。
獄を逃れて大陸へ渡ったローは、その後ヨーロッパ各地を転々とします。 アムステルダム、ヴェネツィア、ジェノヴァ、トリノ――。 彼が滞在した都市はいずれも、当時の金融の最前線でした。 賭博と確率論で生活費を稼ぎながら、アムステルダム銀行のしくみや、イタリア商人たちの為替決済を観察したと伝えられます。
放浪の年月のなかで、ローには一つの確信が育っていきました。 国の富は、金銀の量ではなく、流通するお金の量で決まる――。 金属貨幣に縛られず、信用に基づく紙幣を増やせば、経済は活気づくという考えです。 当時としては、はるかに先を行く発想でした。 彼は1705年に『貨幣と交易について』という小論をスコットランド議会に提出していますが、採用には至りませんでした。
2. 摂政オルレアン公との出会い
1715年、太陽王ルイ14世が72年の長い治世を閉じて世を去りました。 残されたのは、莫大な戦費と贅沢な宮廷生活が積み上げた巨額の国家債務でした(推計額は資料によって異なり、しばしば「総額30億リーヴル前後」とも言われます)。 王位を継いだルイ15世はまだ5歳。 実権は摂政オルレアン公フィリップ2世が握ります。
財政の打開策を探していたオルレアン公にとって、紙幣と信用で経済を膨らませるというローの構想は、まさに渡りに船でした。 1716年、ローは「ローの一般銀行」(後の王立銀行)の設立を許可され、紙幣の発行を始めます。 当初、この紙幣は金貨と確実に交換できたため、信用は驚くほど早く広がりました。
翌1717年、ローはさらに「西方会社」(後にミシシッピ会社と通称される)を設立します。 フランス領ルイジアナ――北米ミシシッピ川流域の広大な土地――との貿易独占権を持つ国策会社でした。 やがてこの会社は東インド会社や中国会社など他の特許会社を次々と吸収し、ほぼ全ての対外貿易と植民地経営を一手に握る巨大複合体に膨れ上がります。
3. 株価高騰と「ミリオネア」の誕生
1719年、ミシシッピ会社の株式は熱狂的に買われ始めました。 新大陸の富への期待が煽られ、株価は500リーヴルから、1719年12月には1万リーヴルに達する水準にまで駆け上がりました。 パリのカンカンポワ通りには、株を売り買いしようとする群衆が押し寄せ、深夜まで取引が続いたといいます。
この時期、株で巨富を得た者を指して「ミリオネア(millionnaire)」という言葉が広まったとされています。 今日「百万長者」を意味するこの言葉は、ローの会社が生んだこのバブル期に広まったと言われています。 にわか富豪は馬車・宝石・館を競って買い求め、パリの物価は数年で大きく上昇しました。
1720年1月、ローはフランス財務総監(コントロールール・ジェネラル)の地位にまで上りつめます。 スコットランド人で、しかも元殺人犯の彼が、欧州大陸最強の王国の財政を一手に動かす立場に就いたのです。
4. システムの崩壊
問題は、銀行の紙幣と会社の株が、深く絡み合っていたことでした。 株価を支えるために紙幣が刷られ、その紙幣の価値は株への期待で保たれる――。 それは実体経済をはるかに超えて膨らんだ風船でした。 しかも、北米ルイジアナから報告される実際の利益は乏しく、湿地と熱病に阻まれた植民事業は、株価が約束する未来図とはほど遠い状況にありました。
1720年春、利益の確定を急ぐ大口投資家が、株を売って紙幣に換え、その紙幣を金貨に換え始めます。 ローは紙幣の金貨兌換を制限し、貴金属の保有自体を禁じる強硬策に出ましたが、これがかえって信用不安を加速させました。 夏には取り付け騒ぎが起き、銀行前で押し合った群衆のなかから圧死者が出たとも伝えられます。
株は紙くずに近い水準まで暴落し、紙幣は信用を失いました。 同年末、ローは財務総監の座を追われ、変装してフランス国外へ逃れます。 1729年、ヴェネツィアで肺炎により没し、晩年は再び賭博と借金で食いつないでいたと記録されています。
5. 南海泡沫との同時代性、そしてその後
奇妙なことに、ほぼ同じ1720年、ドーバー海峡の向こうのロンドンでは南海泡沫事件(South Sea Bubble)が起きていました。 南海会社の株が国家債務の引受けと結びついて高騰し、やがて崩壊したこの事件は、ミシシッピ会社の事件と構造がよく似ています。 両者を合わせて「二大バブル」と呼ぶ歴史家もいます。 万有引力で知られるアイザック・ニュートンも、南海会社株で大きな損失を被ったと伝えられます。「天体の動きは計算できるが、人間の狂気は計算できない」という言葉は、後世になってニュートンに帰せられるようになった逸話として知られています。
この崩壊の記憶はあまりに深く、フランスでは以後約一世紀にわたって紙幣そのものが嫌われたとも言われます。 中央銀行に相当する常設機関がフランスに置かれるのは、ようやくナポレオン期の1800年(フランス銀行設立)まで待たなければなりませんでした。 さらにフランス革命期の1790年代には、教会財産を担保にした「アシニア紙幣」が乱発されて再び猛烈なインフレを引き起こします。 これも遠因として、ミシシッピの記憶が「紙幣はやがて紙くずになる」というトラウマとして社会に焼き付いていたためだ、と論じる経済史家もいます。
一方で、ローの構想自体――紙幣、中央銀行、信用に基づく経済――は、決して間違いではありませんでした。 それらは、のちの世界が当たり前に使う仕組みそのものです。 20世紀の経済学者ヨーゼフ・シュンペーターは、ローを重要な金融理論家として高く評価したことで知られています。 今日の量的緩和や中央銀行の信用創造をめぐる議論を読むと、300年前にローが直面した問題と、本質的にはあまり遠くないことに気づかされます。 中央銀行はどこまで通貨を供給してよいのか、信用と実体経済はどの均衡で結ばれるべきか――。 答えがまだ確定していないという意味では、ローの「実験」は今も続いていると言えるのかもしれません。
「もしも」の問い
もしローが、株の投機と紙幣の発行を切り離し、もっとゆっくり制度を育てていたら――。 彼は「最初の中央銀行家」として、称賛されていたかもしれません。
正しすぎるアイデアも、急ぎすぎれば、人々の信頼ごと焼き尽くしてしまう。 ジョン・ローの生涯が残したのは、近代金融の青写真と、その制度が抱える危うさ、その両方でした。
