もしも研究所

もしも、夷陵の戦いで劉備が勝っていたら?

もしも時間 · 2026-06-14 · 約3,400字 · 約7分

蜀漢・章武元〜二年(西暦221〜222年)。

長江上流、三峡を抜けた先——夷陵(現在の湖北省宜昌一帯)、そして猇亭(こうてい)。

帝位に即いたばかりの 劉備 は、自ら大軍を率いて東へ下ります。狙いは、孫権 の呉。きっかけは、前々年(219年)に荊州で起きた事件でした。呉の 呂蒙 が荊州を奇襲し、守将であった 関羽 が捕らえられ、処刑された——劉備にとって、義兄弟であり、長年の腹心であった関羽の死は、看過できないものでした。

劉備軍は当初、勢いよく長江沿いに進み、呉の領内へと食い込みます。これを迎え撃ったのが、呉の若き総司令官 陸遜(りくそん) です。陸遜は無理に決戦を挑まず、要害に拠って 持久戦 に持ち込みました。戦線は数か月にわたって膠着します。

そして夏。劉備軍は、長江沿いの険しい山林地帯に、陣営を 連ねて(連営) 配置していました。『三国志』(陳寿撰・西晋成立)とその裴松之注が伝えるところでは、その布陣は数百里にわたって続いていたとされます。陸遜はこの布陣の弱点を見抜き、火計 を仕掛けます。兵に枯れ草の束を持たせ、連なる木柵の陣営に次々と火を放った——乾いた山林の陣は燃え広がり、劉備軍は総崩れとなりました。劉備は命からがら西の 白帝城(白帝城) へと退き、ほどなく病に倒れ、翌 章武三年(223年) に没します。

ここで一点、はっきり切り分けておきます。『三国志演義』(明代の小説)に描かれる 「七百里に連なる陣を一夜にして焼き尽くす」劇的な描写や、敗走する劉備を諸葛亮の「八陣図」が救う場面 などは、後世の創作・脚色の色彩が濃く、史書『三国志』の記述とは性格が異なります。本記事は、確実な史実(劉備の東征・関羽の弔いという動機・連営の布陣・陸遜の火計による大敗・白帝城への退却と病没)を土台に話を進めます。

ここで、本記事の「もしも」を立てます。

もし劉備が夷陵で陸遜の火計を防ぎ、呉軍を破って荊州を奪還していたら——蜀の国力も、呉の存続も、魏との力関係も、三国鼎立のその後は、どう書き直されただろうか?

🌀 The IF Lab 編集部より:

本記事は、史実(劉備が夷陵で陸遜に大敗し、まもなく病没した)を踏まえた上で、その勝敗が逆転していたらという限定条件で反実仮想を行います。「関羽が死ななかった」「劉備が東征しなかった」のような前提崩壊型ではありません。あくまで夷陵という一会戦の 勝敗の結果 にだけ手を入れるシナリオです。


1. 実際に起きたこと(史実の確認)

夷陵前後の流れを、最小限に整理します。

219〜220年・荊州喪失と関羽の死

221〜222年・夷陵の対峙

戦後の流れ

ここで重要なのは、夷陵の敗北こそが、蜀漢の国力を大きく削ぎ、その後の蜀を「守勢の小国」へと方向づけた という点です。本記事の「もしも」は、この 一会戦の勝敗 が逆だったら何が変わるか——という限定条件です。


2. 分岐点 ——『夷陵の勝敗』の現実性

劉備が夷陵で敗れた要因として、史料・後世の論評がしばしば挙げるのは、おおむね次の三つです。

逆に言えば、もし劉備がこの布陣の弱点を避けられていたら——という条件で「もしも」を絞れます。

IFの前提

ここでの「もしも」を、具体的に絞ります。

劉備が、暑熱の山林に陣営を連ねるという布陣を避け、水陸の連携を保ったまま火計への備え(陣の分散・延焼への警戒)を一段階機能させていたら——陸遜の持久と火計を凌ぎ、呉軍を押し返して荊州を奪還できていたら。

これは「劉備軍の布陣と防御の質が、ほんの一段階だけ高かったら」という条件です。孫権や陸遜の存在そのものを消す前提ではなく、一会戦の勝敗 の問題に絞っています。

変化の確率

編集部として、この「もしも」が実際に起きていた確率を評価すると——

本記事の「もしも」は、起きていたら三国の力関係を組み替え得た——いわゆる 高インパクト 型の反実仮想です。


3. 世界はどう変わるか(短期・中期・長期)

短期(222〜223年頃):荊州奪還と劉備の延命

劉備が夷陵で勝ち、荊州方面へ押し返せた場合、まず起きるのは、荊州の一部回復 の可能性です。

史実の蜀は、夷陵の敗北によって荊州奪還を完全に断念し、益州(現在の四川一帯)に閉じこもる「守勢の小国」へと縮みました。この敗北がなければ、蜀が長江中流域に再び足場を得て、魏・呉に対してより能動的に動ける位置を保てた可能性があります。

同様に、劉備個人にとっても夷陵は決定的でした。史実では、この大敗の直後に病に倒れ、翌年には世を去っています。勝利の世界線では、劉備がもう少し長く政務を執り、諸葛亮への性急な 託孤 が起きなかった可能性も出てきます。

劉備勝利の世界線では、

中期(220年代〜):呉蜀関係の再編と魏の出方

ここがいちばん面白い分岐です。

史実では、夷陵の敗北のあと、諸葛亮が呉と和睦して呉蜀同盟を再構築 し、両国は再び手を組んで魏に対抗しました。皮肉なことに、蜀が大敗して荊州を諦めたからこそ、呉蜀は争点を失い、対魏で結束できたとも言えます。

ところが「もしも」の世界線では、ここが大きく揺らぎます(諸説あり)。

つまり、劉備の勝利は「蜀にとって良いこと尽くし」とは限りません。荊州を巡る呉との対立が長引けば、結局は魏を利した かもしれない——という逆説がここにあります。

長期(3世紀):三国鼎立の重心が動く

最も大きな影響が出るのは、ここから先です。

史実では、蜀は諸葛亮の北伐(228年〜)を繰り返すも魏を崩せず、263年に魏に滅ぼされます。呉も280年に晋(西晋)によって滅び、中国は再統一されました。

もし劉備が夷陵で勝ち、蜀が荊州という縦深を保ったまま3世紀に入っていたら、

ただし、これは「荊州さえあれば蜀が勝てた」という単純な話ではありません。魏の圧倒的な国力差(人口・生産力)は夷陵の勝敗とは独立に存在し、蜀が三国の中で最も小さい国だったという基本構造は、容易には覆りません。勝者の重心が動いても、最終的に最大の国力を持つ勢力が優位に立つ という大きな流れは、別の形で再来した可能性が十分にあり、ここは本記事の射程を超える別の問いです。


4. 史実では、なぜ起きなかったか

ここで、史実に戻ります。

劉備が夷陵で勝てなかった理由を、リアリティチェックとして整理しておきます。

  1. 連営という布陣の致命的な弱点:暑熱の季節に、険しい山林へ陣営を数百里も連ねて配置したことが、火計の格好の標的になった。曹丕が事前にこの弱点を見抜いていたと伝わるほど、当時から無理のある布陣だったとされる
  2. 持久戦への対応不足:陸遜が決戦を避けるなか、劉備軍は長期遠征で疲弊し、補給線も伸びきっていた。逆に呉軍は地の利と水運に通じ、好機を待つ余裕があった
  3. 陸遜の冷静な指揮:若年で総司令官に抜擢された陸遜は、味方の不信に耐えながらも軽挙を避け、最良の瞬間に火計を放った。劉備の焦りと陸遜の忍耐の差が、勝敗を分けた

なお、『三国志演義』が描く 「八陣図」による敗走の救済や、劇的に脚色された連営炎上の場面 は、後世の創作・脚色の色彩が濃く、史書の記述とは切り分けて考えるべきです。連営の正確な規模や火計の細部は、史料的にも不透明な部分が残ります(諸説あり)。

つまり、劉備の敗北は単なる油断ではなく、布陣の失策 + 長期遠征の疲弊 + 陸遜の的確な指揮 という複数条件が重なった結果であり、後世から「もし」を立てやすい会戦になっている——という整理が、標準的な見方に近いと思います。


5. ありえた世界線——もう一つの『222年』

仮に、すべての条件が揃って、劉備が夷陵で陸遜を破り、荊州を奪還していたら——その後の三国の歴史は、おそらく次のような特徴を持ったはずです。

これは「もし」の限定条件下で導いた一つの解釈にすぎず、史実とは異なります。ただ、夷陵という 一会戦の勝敗 が、その後の三国の力関係を別の形に組み替えた可能性は、十分にあり得たということです。


6. 最後の問い

歴史を変えるのは、巨大な王朝の興亡だけではなく、ある一つの会戦で、焦りと忍耐がどちらに傾いたか ——という、極めて細い分岐点だったのかもしれません。

劉備は、義兄弟の弔いという強い動機を抱えて東へ下りました。その思いの強さこそが、長期遠征の焦りとなり、暑熱の山林に陣を連ねるという失策へとつながった——とも読めます。一方の陸遜は、味方の不信に耐え、ただ最良の瞬間を待ち続けました。

しかし、もしあの夏、劉備が布陣の弱点に気づいていたら。 そして火と風への備えを、一段階だけ厚くできていたら——。

両者を分けたのは、兵数や大義の有無だけではなく、強い動機に駆られたとき、なお冷静に弱点を見つめられたか ——だったのかもしれません。

私たちもまた、強い思いに突き動かされているとき、足元の弱点にどこまで目を向けられているでしょうか。


この「もしも」を、別角度で楽しむ

夷陵の戦い・三国時代は、漫画・歴史小説・映画でも多角的に描かれています。本記事の反実仮想と読み比べると、関羽の死から夷陵に至る劉備の判断構造が、より立体的に見えてきます。なお、作品の多くは史書『三国志』ではなく小説『三国志演義』を下敷きにしている点に留意すると、史実との差分が見えてきます。

映像で深掘りする選択肢

夷陵の戦い・三国時代を題材にした映画やドラマは、日本・中国の双方で繰り返し制作されてきました。スカパーの時代劇専門チャンネルでは、歴史・時代劇作品が放送・配信されており、ひとつの選択肢として挙げておきます。


🌀 編集部メモ:

本記事は反実仮想(歴史IF)です。事実関係は『三国志』(陳寿)とその裴松之注・現代の三国時代研究を参照していますが、解釈・推論部分は IF Lab 編集部の独自整理です。連営の正確な規模、火計の細部、劉備の死因、託孤の経緯——いずれも諸説あります。『三国志演義』由来の創作(八陣図の救済、劇的に脚色された連営炎上など)は史実とは切り分けています。

📚 諸説ある題材です

夷陵(猇亭)の戦いの正確な戦場・規模、両軍の兵数、連営の実態、火計の具体的な経緯、そして『三国志演義』が描く名場面の史実性——いずれも、研究者の間で諸説あります。本記事はその中で、現在の標準的な整理(史書『三国志』とその裴松之注を一次資料として最重視し、小説『三国志演義』の創作との差分を hedge する)を採用しています。

※別の解釈・反論も歓迎しています。気持ちよく読める形でいただけると嬉しいです。


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