もしも、マゼランが世界一周を完遂していたら?
もしも時間 · 2026-05-25 · 約5,600字 · 約11分
1521年4月27日、フィリピン・セブ島近郊のマクタン島。
フェルナンド・デ・マゼラン(ポルトガル人探検家、当時約40歳)は、現地首長ラプラプ率いる戦士たちとの戦闘の中で命を落としました。
マゼランが率いた艦隊は1519年9月にスペインを出発し、南米大陸南端のマゼラン海峡を通過し、太平洋を横断し——フィリピンまでたどり着いていました。地球を西回りで一周するという計画の、ほぼ「折り返し点」でした。
彼は自ら完遂することはありませんでした。
艦隊は残存メンバーで航行を続け、最終的に18名がスペインに帰還しました。これが「史上初の世界一周航海」として記録されています。完遂したのは、艦隊の副指揮官フアン・セバスティアン・エルカーノです。
ここで、本記事の「もしも」を立てます。
もしマゼランが1521年4月27日のマクタン島の戦闘を回避し、世界一周を自らの手で完遂してスペインに帰還していたなら——大航海時代の展開と、スペインの太平洋進出の形はどう変わっていたか?
🌀 The IF Lab 編集部より:
本記事は、マゼランが1521年4月27日にマクタン島で戦死したという史実を踏まえた上で、その戦闘を回避・生還した場合の反実仮想を行います。「マゼランが別の人物だった」「スペインが別の指示を出していた」のような根本的な前提変更ではありません。あくまで 1521年4月のマクタン島での分岐点 にだけ手を入れるシナリオです。
1. 実際に起きたこと(史実の確認)
マゼラン艦隊の出発(1519年)
フェルナンド・デ・マゼランはポルトガル人でしたが、母国に認められず、スペイン王カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)の支援を受けて航海に出ました。
1519年9月20日、セビリア近郊のサンルカル・デ・バラメダから5隻の船と約260名の乗組員が出発しました。目的はスパイス諸島(現在のインドネシア・マルク諸島)への西回り航路の開拓——アジアのスパイス貿易を、ポルトガルが独占していた東回り航路に頼らずに行うためです。
大西洋を南下し、ブラジル沿岸を経て南米大陸の南端を目指します。
マゼラン海峡の通過(1520年)
1520年10月、艦隊は南米最南端の海峡に到達します。現在「マゼラン海峡」と呼ばれるこの水路は、全長約570km、幅は狭い部分で3km程度。強風と複雑な地形で知られ、通過に約38日かかったとされます。
出発時5隻だった船は、この時点で3隻に減っていました(1隻は嵐で難破、1隻は乗組員が反乱を起こして引き返した)。
太平洋に出たマゼランは、「Mar Pacífico(穏やかな海)」と名付けました——実際の太平洋は穏やかではありませんでしたが、大西洋南端の嵐に比べれば相対的に静かだったのかもしれません。
フィリピン到達と死(1521年)
99日間の太平洋横断の後、1521年3月にマリアナ諸島に到達。4月にはフィリピンのセブ島に寄港し、現地首長フマボンとの同盟を結びます。
この同盟が、悲劇の引き金になります。
フマボンはマクタン島の首長ラプラプとの紛争でマゼランの軍事支援を求めました。マゼランはこれを受け入れ、4月27日に少数の部隊を率いてマクタン島に上陸します。
「少数の部隊での上陸」という判断については、後年の研究者が「なぜそうしたか」を問い続けてきたテーマです。自信過剰だったのか、現地の地形を誤解していたのか——いずれにせよ、マゼランは圧倒的な多数のラプラプ軍に包囲され、戦死しました。
艦隊は指揮官を失ったまま航行を続けます。スパイス諸島でスパイスを積み込み、インド洋を西回りして喜望峰を回り——1522年9月6日、セビリアに帰還したのは「ビクトリア号」1隻と18名だけでした。
2. 分岐点——1521年4月の「もしも」
IFの前提
1521年4月27日のマクタン島上陸の際、マゼランが同行したスペイン将校の進言を受け入れ、少数での上陸を中止していたら——あるいは、戦闘が始まった後に海上に退避することに成功していたなら——その後の航海を完遂し、スペインに帰還していたか?
実際の記録に当たると、マゼラン自身は「数名の軽装部隊だけで示威すれば十分だ」という判断を持っていたとされます。乗組員の中には反対意見もあったとされますが、採用されませんでした。
変化の条件:「マゼランが慎重に行動し、正面戦闘を避け、外交的解決を優先していたら」という想定です。これは彼の性格的傾向(慎重な航路選択と果断な実行力の組み合わせ)と完全に矛盾するわけではない選択です。
変化の確率
- 中程度(★★★☆☆):マゼランは有能な航海者かつ指揮官でした。マクタン島上陸の判断が「迷いのある選択」だったことは、後の記録からも読み取れます。慎重な人物が「退く」という選択をする余地はあった——という意味で、他の「もしも」に比べると確率は比較的高めです。
3. 世界はどう変わるか
短期(1521〜1522年):マゼランが帰還した世界
マゼランが生き延び、1522年にスペインへ帰還したとすると、何が変わるか。
最も直接的な影響は、世界一周の功績が個人として記録されるという点です。
史実では「マゼランの航海・エルカーノの完遂」という形で記録され、エルカーノはスペイン王から「世界を初めて一周した者」として紋章を授かりました。マゼランが自ら完遂していたなら、この功績は全面的にマゼランのものになります。
スペイン王室からの報酬と次の航海の準備が、より迅速に進んでいた可能性があります。マゼランには太平洋航路の実体験があり、その情報はスペインの次の遠征計画に直接生かされたはずです。
中期(1520年代〜1530年代):スペインの太平洋政策
マゼランが帰還した世界線で最も大きな分岐が起きるのは、スペインのフィリピン・太平洋政策においてです。
史実では、フィリピンへのスペイン本格進出は1565年のミゲル・ロペス・デ・レガスピ遠征まで40年以上かかりました。マゼランの死後、スペインは太平洋の「西側」への本格的な足場を持てず、情報も限られていたのです。
もしマゼランが帰還し、フィリピン・マリアナ諸島・スパイス諸島の詳細な地理情報と外交経験を持ち帰っていたなら:
- 1520年代〜30年代に、スペインのフィリピン本格進出が前倒しで起きた可能性
- スパイス諸島(現マルク諸島)をめぐるスペイン・ポルトガルの条約交渉(実際には1529年のサラゴサ条約)の内容が変わっていた可能性
なお、史実では1529年のサラゴサ条約で、スペインはスパイス諸島の権益をポルトガルに350,000ドゥカットで譲渡しました。フィリピンの権益は放棄されなかったものの、スパイス直接取引の断念という形になりました。
マゼランという現場経験者がいた場合、この交渉の展開は変わっていた可能性があります——ただし、交渉の核心はスペインの財政問題(カール5世の軍事費不足)にあったため、条約の基本構造は変わらなかったかもしれません。
長期(1540年代以降):大航海時代の「競争」の形
大航海時代のスペインとポルトガルの競争は、マゼランの帰還有無にかかわらず続いたでしょう。
ただ、太平洋航路の安定化が20〜30年早まっていたとすれば:
- アジアとの貿易ルートの形成が早まり、スペインの「太平洋帝国」化が加速した可能性
- 史実で1565年に開いた「マニラ・ガレオン」貿易(メキシコ〜フィリピン〜中国の銀・絹の交易)が、数十年早く始まっていた可能性
- その結果、日本や中国との接触も早まり、16世紀の東アジアの「鎖国」前後の歴史に微妙な影響が出た可能性
ただし「影響があった可能性」は認めつつ、東アジアの内政(明の衰退、日本の戦国時代)はスペインの太平洋進出とは独立した構造要因で動いていたため、「根本的に書き直された」という主張は過大です。
4. なぜ史実では完遂しなかったか(リアリティチェック)
マゼランの死には、いくつかの「必然的要因」があります。
第一に、フマボンとの同盟義務:現地勢力との同盟を結んだ以上、軍事支援を求められることは予見できました。マゼランがそれを断れたかどうか——断っていれば同盟が崩れ、別の形での危機が生じた可能性もあります。
第二に、情報の非対称性:マクタン島の地形、ラプラプ軍の規模、戦闘能力についての情報が不足していました。16世紀の探検航海は常にこの「現地情報の欠如」という問題を抱えていました。
第三に、リーダーシップの問題:長期航海の疲弊と、乗組員との軋轢(反乱の記録もある)が、指揮判断に影響していた可能性があります。
5. ありえた世界線——もう一つの『1521年以降』
仮に、マクタン島での戦闘を回避し、マゼランがスペインに帰還していたとしたら——
- 1522年:マゼランがスペインに帰還。「世界を一周した男」として史上唯一の記録を持つ探検家となる
- 1520年代後半:マゼランの経験を活かした第二次太平洋遠征の準備が進む。フィリピン・マリアナ諸島への足場が史実より20〜30年早く確立される
- 1529年のサラゴサ条約は、現場経験者の知識によって、スペイン側の交渉力が史実よりやや強い状態で行われていた可能性
- 1540年代:マニラ・ガレオン貿易の原型が史実の1565年より数十年早く始まっていた可能性
- 東アジアとの接触時期が早まり、16世紀の日本・中国とスペインの関係の形が変わっていた可能性
これは一つの解釈にすぎません。ただ、1521年4月の朝にマゼランが慎重な判断をしていたなら——その後の数十年の太平洋史は、別の形をとっていた可能性があります。
6. 最後の問い
マゼランが完遂しなかった世界一周を、18名が完遂しました。
「世界一周を最初に達成した人物」がマゼランかエルカーノかという問いは、今日でも国によって異なる答えがあります。スペインではエルカーノ、ポルトガルではマゼランを称える傾向があります。
どちらを「達成者」と見るかは、「計画した者」と「完遂した者」のどちらに功績を帰するかという問いでもあります。
歴史においては、しばしば「途中で倒れた者」が「完遂した者」より長く語り継がれます。マゼランの知名度がエルカーノより高いのは、その一例かもしれません。
死によって物語が完成するという、人間の記憶の奇妙な仕組みを感じます。
この「もしも」を、別角度で楽しむ
大航海時代の冒険と覇権争いを描いた作品・書籍は多くあります。
- 書籍『世界を一周した男 エルカーノ』関連 — 史実の完遂者の視点から大航海時代を読む。
- Kindle Unlimitedで世界史・航海史を探す
- ドキュメンタリー・歴史映像
🌀 編集部メモ:
本記事は反実仮想(歴史IF)です。事実関係はピガフェッタ『マゼラン世界周航記』・スペイン王室記録・現代の大航海時代研究を参照していますが、解釈・推論部分は The IF Lab 編集部の独自整理です。諸説あります。
📚 諸説ある題材です
マゼランの死の詳細、マクタン島での戦闘の経緯、サラゴサ条約の交渉過程——いずれも研究者の間で諸説あります。ピガフェッタの記録は主要な一次資料ですが、彼はマゼランに好意的な立場から書いたため、客観的な補正が必要な部分もあります。
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