もしも研究所

もしも、1973年のオイルショックへの対応が違っていたら?

もしも時間 · 2026-01-20 · 約3,900字 · 約8分

昭和48年(1973年)秋、東京。

スーパーの棚から、トイレットペーパーが消えました。続いて洗剤も。「紙がなくなる」という噂が噂を呼び、人々が買い占めに走った——後年「トイレットペーパー騒動」として語り継がれる、あのパニックです。

きっかけは、同じ年の10月に勃発した 第四次中東戦争 でした。アラブの産油国が、イスラエルを支援する西側諸国に対して石油の輸出制限と価格引き上げに踏み切り、国際原油価格はわずか数か月で約4倍に跳ね上がります。エネルギーの大半を中東の石油に頼っていた日本は、まともに直撃を受けました。物価は荒れ狂い、当時の人々はそれを「狂乱物価」と呼びました。

そして、この秋を境に、ひとつの時代が静かに終わります。1955年以降ずっと続いてきた、日本の 高度経済成長 です。

ここで、本記事の「もしも」を立てます。

もし1973年のオイルショックへの日本の対応——短期の物価対策やエネルギーの調達、そして省エネ・産業転換への舵の切り方——が、史実と違っていたら、日本経済と産業のかたちは、どこがどう書き直された可能性があるだろうか?

🌀 The IF Lab 編集部より:

本記事は、史実(1973年の第一次石油危機と、その後の安定成長への移行)を踏まえた上で、「対応がいくらか違っていたら」という限定条件で反実仮想を行います。なお、当時の物価上昇率や原油価格の倍率には、集計方法や対象によって幅があります。本記事では、具体的な数値はおおまかな目安として扱い、断定はしません。


1. 実際に起きたこと(史実の確認)

まず、1973年から70年代後半までの流れを、最小限に整理します。

引き金——第四次中東戦争と原油価格の急騰

国民生活の混乱と緊急対応

高度成長の終焉と「安定成長」へ

重要なのは、オイルショックは「日本が石油という単一エネルギーにどっぷり依存していた」という構造的な弱さを、一気に露わにした事件だった ということです。本記事の「もしも」は、その露呈の現場で、日本がもう少し違う手を打っていたら——という条件です。


2. 分岐点 ——「依存」という見えなかった前提

1973年のショックの本質を考えるうえで、外せないのが 当時の日本のエネルギー構造 です。

高度成長期の日本は、安くて豊富な中東の石油を燃料に走り続けてきました。1950年代前半には一次エネルギーに占める石油の割合は2割に満たなかったのに、第一次石油危機のころには8割近くにまで膨らんでいたとされます。つまり日本は、知らず知らずのうちに、一本の供給ラインに国全体の動力を賭けていた わけです。安い石油は、高度成長の前提であると同時に、見えない急所でもありました。

その急所が、戦争という外部要因で一瞬にして塞がれた——これが1973年に起きたことの骨格です。

IFの前提

ここでの「もしも」を、具体的に絞ります。

1973年のショックに対し、日本が(a)短期の物価・調達対応をより冷静にこなし、かつ(b)省エネ・エネルギー多様化への転換を、史実よりいくらか早く・強く進めていたら——。

これは「危機の打撃を和らげ、構造転換の助走を前倒しできていたら」という条件です。

過大評価への注意

ここで強くhedgeしておく必要があります。


3. 世界はどう変わるか(短期・中期・長期)

短期(1973〜1975年):狂乱物価の山が、少し低くなる

対応が違った世界線で、まず影響が出得るのは 物価とパニックの大きさ です。

中期(1970年代後半):産業構造の選別が、より滑らかになる

オイルショック後、日本の産業は 素材型(鉄鋼・石化など)が苦しみ、加工組立型(自動車・家電)が伸びる という選別を経験しました。

長期(1980年代〜):「省エネ大国」という看板の濃淡

最も慎重に語るべきなのが、この長期です。

つまり長期では、「日本が資源を持たない加工貿易国であるという根っこは変わらないが、省エネ大国への到達の速度と、その看板の濃さは、違っていたかもしれない」という結論が穏当だと考えます。


4. 史実では、なぜそうなったか

ここで、史実に戻ります。なぜ日本は、あれほど石油に依存し、そして危機に追われる形でしか転換できなかったのか。リアリティチェックとして整理します。

  1. 安い石油が、成長の前提だった — 高度成長そのものが、豊富で安価な中東の石油を燃料に組み立てられていました。その前提を平時に疑い、コストをかけて分散させる動機は、現実には働きにくかった
  2. 危機が来て、はじめて投資が動いた — 省エネ技術や代替エネルギーへの本気の投資は、痛みを伴うものです。痛みのない平時には先送りされ、ショックという外圧があって、ようやく一斉に動き出した。これは人間と組織の、ごく自然な振る舞いでもあります
  3. 転換は、痛みとセットだった — 素材型産業の構造不況も、狂乱物価も、たしかに苦しい出来事でした。しかし、その痛みこそが、加工組立型への乗り換えと、世界一級の省エネ技術を引き出した側面がある。「災い転じて」の構図が、たしかに働いていました

つまり史実の流れは、単なる失敗でも成功でもなく、資源小国が、危機に背中を押されて、依存から多様化・高効率へと脱皮していく、その節目そのもの でした。


5. ありえた世界線——もう一つの『1970年代後半』

仮に、1973年の対応が史実と違っていたら——その後の日本経済は、おそらく次のような特徴を わずかに 帯びたかもしれません(控えめに記します)。

これは「もし」の限定条件下で導いた一つの解釈にすぎず、史実とは異なります。いずれもが 確定ではなく可能性 であることを、改めて強調しておきます。


6. 最後の問い

1973年のオイルショックが日本に突きつけたのは、安さの裏に隠れていた「一本の供給ラインへの依存」という急所 でした。

安い石油は、高度成長の翼であると同時に、見えないアキレス腱でもありました。戦争という外の出来事が一瞬その腱を断ち、物価は荒れ、棚から紙が消え、戦後初めて成長が止まる。けれど日本経済は、その痛みを燃料にして、重厚長大から加工組立へ、浪費から省エネへと、自らのかたちを組み替えていきます。災いは、転じて鍛錬になりました。

オイルショックが最後に残したのは、特定のエネルギーや供給源に賭けることの危うさ——平時にはほとんど議論されず、危機が来た瞬間にだけ全身を貫く、あの構造的な脆さです。それは石油に限らず、電力でも、半導体でも、稀少金属でも、かたちを変えて繰り返されます。最も安く効率の良い「一本道」を選んだ国が、その一本道ゆえに最も脆くなる——昭和の日本が学んだこの逆説は、今もどこかの供給網の上に、静かに置かれたままです。


この「もしも」を、別角度で楽しむ

第一次石油危機と戦後日本経済の歩みは、経済史の評伝・ノンフィクション・ドキュメンタリーでも繰り返し描かれてきました。本記事の反実仮想と読み比べると、危機と転換の現場が、より立体的に見えてきます。

なお、第一次石油危機や狂乱物価をめぐっては、NHKをはじめ各局のドキュメンタリーや当時の報道アーカイブが残されています。映像で当時の空気に触れると、本記事の数字の裏にあった人々の不安が、より生々しく感じられるはずです。


🌀 編集部メモ:

本記事は反実仮想(歴史IF)です。事実関係は第一次石油危機に関する通説と各種資料を参照していますが、解釈・推論部分は IF Lab 編集部の独自整理です。当時の物価上昇率・原油価格の倍率・成長率——いずれも集計方法や対象によって幅があり、対応が違った場合の影響も推測を含みます。

📚 諸説ある題材です

第一次石油危機の影響評価(高度成長終焉の主因はどこにあったか)、狂乱物価の要因(原油高か、過剰流動性か、心理的パニックか)、省エネ・産業転換の評価——いずれも研究者の間で見方が分かれます。本記事の反実仮想部分は推測を含み、具体的な数値はおおまかな目安として扱っています。確定できない事項は hedge する立場を一貫してとっています。

※別の解釈・反論も歓迎しています。気持ちよく読める形でいただけると嬉しいです。


🌀 The IF Lab|もしも研究所 歴史・特許・人間ドラマの事実をベースに、 反実仮想で世界を覗き見る研究所です。

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