ペルキン・ウォーベック――なぜヘンリー7世は「死んだはずの王子」を名乗る一介の詐称者を、十年ものあいだ恐れたのか
歴史のあやまち · 2026-03-07 · 約5,000字 · 約10分
結論を先に:史料が記録していること・していないこと
- 史料が記録していること——1490年代、フランドル出身の一青年が「自分はロンドン塔から生き延びた王子リチャード(ヨーク公)だ」と名乗り、イングランド王ヘンリー7世に十年近く付きまとった。彼はペルキン・ウォーベックと呼ばれる。フランス王、ブルゴーニュ公爵夫人、神聖ローマ皇帝、スコットランド王が、時期を違えて彼を「本物の王」として遇したことは、複数の記録が伝えています。
- 史料が記録していること——ウォーベックは捕縛後、「自分の本名はピアース・オスベック(Piers Osbeck)、フランドルのトゥルネー出身の平民だ」と自白し、1499年に絞首刑に処されました。彼を担いだ側の思惑(対イングランド外交の駒として使う)も、記録の上でたどることができます。
- 史料が記録していないこと——彼が「本物のリチャード公だったのか、それとも純然たる詐欺師だったのか」は、当時から決着がついておらず、現在も研究者の見解が分かれています。そしてその前提にある「塔の王子たちがいつ・どのように死んだのか、あるいは本当に死んだのか」も、英国史最大級の未解決問題として断定できません。本稿はこの二つを断定しません。
この記事は、「本物だったか」の謎解きには深入りしません。角度を一つに絞ります——なぜ、即位したばかりの王ヘンリー7世は、素性の知れぬ一人の若者に、一つの十年をまるごと費やしたのか。答えは、ウォーベック個人の魅力ではなく、チューダー朝初期の正統性がそれほどまでに脆かったという一点にあります。
1. 空白に飛び込んだ青年——「塔の王子たち」という傷口
話は、ウォーベックが現れる少し前にさかのぼります。
1483年、エドワード4世が没すると、その幼い息子エドワード5世と弟のリチャード(ヨーク公)は、叔父リチャード(のちのリチャード3世)によってロンドン塔に入れられました。「安全のため」と説明されたこの二人は、やがて塔から姿を消します。「塔の王子たち(Princes in the Tower)」。彼らがどこで、どのように、あるいは本当に死んだのか——これは今日に至るまで確証のない謎であり、本稿もそこに答えを出しません。重要なのは、当時のイングランド人にとってこれが**「死体の確認されていない空白」**だったことです。
1485年、ボズワースの戦いでリチャード3世を斃(たお)し、ヘンリー・テューダーがヘンリー7世として即位します。だが彼の血統上の王位継承権は、きわめて細い。母方をたどってランカスター家の傍系にかろうじて連なるにすぎず、いわば**「戦場で勝ったから王」**という性格が強かった。彼はこの弱みを、エドワード4世の娘エリザベス・オブ・ヨークとの結婚で補おうとします。しかし結婚で正統性を「借りる」ということは、裏を返せば、ヨーク家の血のほうが本来は上位だと認めるに等しい。ここに、王朝の生まれつきの弱点がありました。
この空白と弱点に、一人の青年が飛び込みます。1491年ごろ、アイルランドの港町コーク(Cork)に、フランドルの商人に随行してやってきた若者が、その気品ある物腰から地元のヨーク派に見出された、と伝えられます。当初は別のヨーク家縁者と取り沙汰され、やがて彼は最も破壊力のある役を選び取った——「私は塔で殺されずに逃れた、弟のほうの王子リチャードだ」。死体の出ていない王子を名乗ること。それは、ヘンリー7世の正統性の急所を正確に突く選択でした。
2. 彼を担いだのは民衆ではなく、王たちだった
ここが、この事件の最も奇妙で、最も本質的な点です。ウォーベックを「本物」に仕立てたのは、熱狂した群衆ではありません。ヨーロッパの君主たちでした。
まず、リチャード3世の姉であり、ブルゴーニュ公爵夫人だったマーガレット・オブ・ヨークが、彼を「甥」として公然と受け入れます。彼女がウォーベックにヨーク家の宮廷作法を教え込んだことは、複数の記録が伝えるところです。彼女が本気で甥だと信じていたのか、偽物と知りつつヘンリーを揺さぶる駒として使ったのかは——史料からは判定できません。だが結果として、大陸に「王子は生きている」という発信源ができた。
フランス王シャルル8世は一時彼を歓迎しますが、1492年、イングランドとのエタープル条約と引き換えに彼を手放します。ウォーベックが「本物かどうか」より、対イングランド外交でどれだけ使えるかで扱いが決まる。この一件が、事件全体の性格をよく表しています。
さらに、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、1493年ごろ彼を「リチャード4世」として承認したと伝えられます。ヨーロッパの筆頭級の権威が、対抗馬の「王」を認めた——これは外交上、ヘンリー7世への正面からの挑戦でした。
そしてスコットランド王ジェームズ4世。1495年、ケント上陸に失敗したウォーベックを厚遇し、翌1496年1月には、王族に連なる令嬢キャサリン・ゴードンとの結婚まで取り持ちます。素性の知れぬ青年が、王の親戚筋の花嫁を得て、王族の縁者として振る舞いはじめる。「王たちがそう扱う」ことが、そのまま彼の"正統性"を積み上げていく構図が、ここで完成します。血の真偽は最後まで宙に浮いたまま、外交の器のほうが先に「王子」を作り上げていったのです。
3. 三度の上陸、三度の失敗
外交の後ろ盾は厚くなっていく一方で、肝心の軍事はことごとく空回りしました。
一度目は1495年7月、ケントのディール(Deal)。上陸部隊が地元民に撃退され、多数が討たれます。ウォーベック本人は船に留まったまま、上陸すらためらった。
二度目は1496年9月、スコットランド国境。ジェームズ4世が軍を率いて越境しますが、イングランド北部の住民はウォーベックへの支持を示さず、遠征は数日で腰砕けになります。この空振りはスコットランドにとって高くつき、翌**1497年、エイトン条約(Treaty of Ayton)**でジェームズ4世はイングランドと和平を結び、ウォーベック支援から手を引きました。最大の後ろ盾が、こうして外交的に剥がれていきます。
三度目は1497年9月、イングランド南西部のコーンウォール。折しも重税への反発から蜂起が起きていた土地に上陸し、彼は数千の支持者を集めて「リチャード4世」を称し、エクセター攻略を試みます。しかし城壁を抜けず、本格的な軍事支援も来ない。ヘンリー7世の軍が迫ると、ウォーベックは陣を捨て、ハンプシャーのボーリュー修道院に逃げ込んで投降しました。
十年近くヨーロッパの王たちを動かし続けた男の軍事的実績は、突き詰めれば**「一つの城も落とせなかった」**に尽きます。にもかかわらず彼が危険だったのは、剣の強さゆえではなく、**彼の存在そのものがヘンリーの正統性への「反証」**として機能したからでした。
4. なぜヘンリーは、勝てない相手を恐れ続けたのか
投降したウォーベックを、ヘンリー7世は当初、意外なほど寛大に扱います。処刑せず宮廷に置き、妻キャサリンとの面会すら許した。ここには冷静な計算があります。殉教者を作れば、次の"リチャード"が現れる。詐称者を派手に処刑することは、かえって「王子は実在した」という物語に真実味を与えかねない。だからヘンリーは、彼を殺すより飼い殺しにして無力化する道を選びました。
それでもヘンリーがこの一件に払った代償は甚大でした。一連の対応にかかった費用は1万3千ポンド超にのぼったと伝えられ、締まり屋で知られたこの王の財政を圧迫します。金額の大きさは、彼がこれを「一詐欺師の戯言」ではなく、王朝の存亡に関わる脅威と見なしていたことの、何よりの物証です。素性の知れぬ若者一人に、王が国庫を傾けたのです。
飼い殺しの方針が破綻するのは、ウォーベック自身が動いたからでした。1498年に脱走を試み(あるいは試みたとされ)、再びロンドン塔に収監されると、今度は同じ塔に囚われていたヨーク家最後の男系、ウォリック伯エドワードとの共謀が発覚します。密告によれば、塔に火を放って脱出し、ウォリックを王位に就ける計画だった、とされます。真偽には議論もありますが、この「発覚」が二人の運命を決めました。
そしてもう一つ、決定的な外圧が働きます。スペインのフェルナンド2世が、娘キャサリン・オブ・アラゴンを王太子アーサーに嫁がせる条件として、イングランド内に王位僭称者が生き残っていることに難色を示していたのです。ヘンリーが渇望した対スペイン同盟が、「脅威を掃討せよ」と迫っていた。国内の脆さと、国外の要請が、同じ方向を指した瞬間でした。
こうして1499年11月23日、ウォーベックはタイバーンで絞首刑に処されます。処刑台で例の自白を読み上げた、と伝えられます。その5日後の11月28日、ウォリック伯もタワーヒルで斬首されました。ヨーク家の血を引く男系と、その血を騙(かた)った男が、ほぼ同時に消される。チューダー朝が「対抗しうる正統性」を物理的に一掃した瞬間であり、翌々年、キャサリン・オブ・アラゴンは無事イングランドへ渡ります。ヘンリーが十年かけて恐れたものの正体は、一人の若者ではなく、自分の王冠が"本物のヨークの血"の前ではいつでも色褪せうる、という自覚そのものだったのです。
5. もしウォーベックが最初から「無視」されていたら——脅威を作ったのは、恐れる側だった
では、反実仮想を一つだけ立てます。もしヘンリー7世が、この青年を最初から歯牙にもかけず、大陸の君主たちも誰一人担がなかったとしたら——ウォーベックは、歴史に名を残す脅威になり得たでしょうか。
思考実験として大真面目に詰めると、答えはおそらく**「否」**です。そしてその「否」に、この事件の底が見えます。
ウォーベックは、一つの城も落とせませんでした。彼を「王子」に押し上げたのは、彼自身の実力ではなく、彼を利用したい者たちの必要でした。マーガレットには甥という物語が要り、マクシミリアンとジェームズにはヘンリーを揺さぶる駒が要り、そしてヘンリーには——皮肉なことに——恐れるべき敵が要った。王朝の正統性が本当に盤石なら、死体の出ない王子を騙る若者など、外交の場で一笑に付して終わりだったはずです。彼が十年もちこたえたのは、担ぐ側と恐れる側の双方が、「本物かもしれない」という空白を必要としていたからにほかなりません。
つまり、ウォーベックの脅威は彼が生み出したものではなく、チューダー朝の脆さが逆向きに投影されたものでした。彼を本物として扱った王たちも、偽物として処刑した王も、等しく一つのことを証明してしまっている——この時代、王の正統性は血の中にあるのではなく、"十分な数の有力者がそう扱うかどうか"という、外側の合意の中にあった。だからこそ、血の真偽が最後まで分からぬまま、器のほうが「王子」を立ち上げ、そして器のほうが「詐欺師」を処刑できた。
動乱期ロシアで偽ドミトリーを担いだのが群衆の集団心理だったとすれば(姉妹編「偽ドミトリー」)、また、一着の軍服が街全体を従わせたケーペニックの事件が権威の記号への風刺だったとすれば(姉妹編「ケーペニックの偽大尉」)、ウォーベックが突いたのはそのどちらとも違う急所でした。彼が暴いたのは、成立したばかりの王朝にとって、正統性とは所有物ではなく、国際政治の卓上でいつでも賭け金にされうる"係争中の主張"だった、という事実です。ヘンリー7世が十年を費やして守り抜いたのは、王座そのものというより、その卓に二度と別の「王」が座らないことだったのかもしれません。
この題材をもう少し深掘りする
一次史料の手触りは、原典に当たると変わります。当時の年代記作者たちがウォーベックをどんな筆致で書き、後世の研究者が「本物か偽物か」をどう論じてきたか。テューダー朝の始まりが、いかに正統性の不安から出発したかは、評伝を読むと一気に立体的になります。
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🌀 もしも、塔の王子リチャードが本当に生きていたら?
ウォーベックが本物だったとしたら——ヘンリー7世は正統な王を処刑した簒奪者となり、リチャード3世の「王子殺し」という筋書きも根底から揺らぎます。だが、それでも一つのことは変わりません。本物の王子であってさえ、彼はやはり国際政治の駒として担がれ、外交の都合で見捨てられた。血が本物か偽物かは、この事件の結末をほとんど左右しなかった——王たちが「本物として扱うか」を先に決め、血の証明は最後まで宙に浮いたままだった。正統性という言葉が、じつは「周りが本物として扱うかどうか」の別名にすぎないことを、これほど不穏に映し出す最期のページも、そうはありません。
主な参照
- Perkin Warbeck(英語版Wikipedia・コーク出現1491/マーガレット・オブ・ヨークによる後見/マクシミリアン1世の「リチャード4世」承認1493/ディール1495・スコットランド1496・コーンウォール1497の上陸/ボーリュー投降・トゥルネー出身「ピアース・オスベック」の自白/1499年11月23日タイバーン処刑)——en.wikipedia: Perkin Warbeck
- The History of Parliament「Unrest in the West: The Perkin Warbeck Conspiracy」(コーンウォール蜂起と1497年の陰謀の学術的整理)——historyofparliament.com
- Encyclopædia Britannica「Perkin Warbeck, English pretender」(フランス・ブルゴーニュ・神聖ローマ・スコットランドによる後援と、ヘンリー7世に対する脅威の位置づけ)——britannica.com
- Richard III Society「Perkin Warbeck」(「本物か偽物か」の論争と塔の王子たちの未解決性についての整理)——richardiii.net
- HISTORY.com「Flemish pretender executed in London (November 23, 1499)」(処刑の日付・タイバーン・自白の朗読と、外交上の失脚の経緯)——history.com
本記事は note では公開していない、The IF Lab サイト独占コラムです。
