もし坂本龍馬が暗殺されなかったら ——明治政府に商人出身者が混ざった世界
歴史のあやまち · 2026-10-08 · 約4,976字 · 約9分
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、夜。
京都・河原町通蛸薬師下ル。醤油商・近江屋井口新助の二階の一室で、坂本龍馬は中岡慎太郎と話し込んでいました。
33歳。この年の春には土佐藩に付属する海援隊の隊長に任じられ、同年10月には大政奉還が実現しています。長らく奔走してきた「幕府から朝廷への政権移譲」という構想がついに形になった直後のことでした。
突然、階段を上る足音がし、複数の人物が部屋に踏み込んできました。
龍馬が咄嗟に刀を掴んだとき、すでに一撃が頭部に加えられていたとも伝わります。中岡は二日後に死去しました。龍馬はその夜のうちに息を引き取ったとされています。
「もしも」への入口
もしも、龍馬がこの夜を生き延びたとしたら?
大政奉還の実現から約6週間後のこの暗殺は、幕末史の中でも際立って「タイミングが惜しかった」出来事として語られます。直後には王政復古の大号令(慶応3年12月9日)があり、明治新政府の輪郭が定まっていきます。
龍馬には新政府への参加を示唆する発言や書簡があったとも言われます。もし彼が生きていれば、その政権に何か違うものをもたらしたかもしれません。
史実: 龍馬の軌跡
土佐脱藩から薩長同盟まで
坂本龍馬(1836年〜1867年)は土佐藩(現在の高知県)の郷士の家に生まれました。江戸で剣術修行ののち、1862年に土佐藩を脱藩。勤王党弾圧の嵐を避けて動いていたこの時期、各藩の浪士や志士たちとの交流が深まります。
1865年、長崎の亀山において「亀山社中」を結成します。薩摩藩や長崎の豪商グループの支援を受けて設立されたこの組織は、武器の仲介・海運・貿易を手がけた民間グループで、後世「日本初の商社」と位置付けられることがあります(ただし「商社」という言葉自体は明治期以降の定義であり、遡及的な位置付けには留保が必要です)。
1866年1月、薩長両藩の同盟成立に龍馬と中岡慎太郎が仲介者として関わったことが知られています。坂本龍馬自筆とされる「薩長同盟裏書」は、木戸孝允が同盟の6箇条をまとめた際にその内容に相違ないと朱書で記したものとして現存しており、重要な一次資料とされています。ただし「龍馬なしには薩長同盟はなかった」という通説的評価については、研究者によって異論もあります。
海援隊と大政奉還
1867年4月、脱藩の罪が許されて土佐藩に付属する外郭機関「海援隊」の隊長に就任。亀山社中を引き継ぐ形で、海運・貿易・政治工作を兼ねた組織となりました。
同年6月ごろ、土佐藩参政・後藤象二郎に対して幕府による政権返上を促す構想を提案したとされています。この構想が船上で話し合われたことから「船中八策」と呼ばれますが、原文・写しがいずれも現存せず、その内容や執筆者については研究者の間で諸説があります(詳しくは後述)。
そして10月13日、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を表明します。
暗殺犯をめぐる論争
近江屋事件の実行犯については、複数の説が現在も並立しています。
京都見廻組説が現在最も有力とされています。大正元年(1912年)、見廻組隊士であった今井信郎の供述が『維新土佐勤王史』に収録され、大正15年には今井の口上書が『坂本龍馬関係文書』に収録されたことから、文献的には「見廻組の佐々木只三郎らが実行犯」という説が通説的地位を占めてきました。
ただし、これは今井の供述という単一証人の証言を中核とするものであり、直接証拠の乏しさは残ります。
他に、新選組説(事件直後、土佐藩家老・寺村左膳らが疑ったとされる説)、紀州藩説(海援隊士らが当初推定したとされる説)、薩摩藩説、御陵衛士説などがあります。いずれも決定的な一次証拠には欠け、この事件が「幕末最大のミステリー」と称される所以でもあります。
近年の研究では「京都見廻組説が有力ではあるが、断定できない」というのが慎重な評価として共有されつつあります。
分岐点: この夜に何があれば生き延びられたか
11月15日の夜、龍馬が近江屋にいることは限られた人物しか知らなかったはずとも言われます。しかし事件は起きました。
「もしも」の分岐点として考えられるのは、いくつかのシナリオです。
一つには、護衛の強化。龍馬は当時から暗殺の危険を周囲に指摘されていたとも伝わります。実際、直前に土佐藩藩士らが警戒を促したという証言もあります(ただしこれらの記録は後世編纂のものを含み、信頼度の評価が必要です)。より厳重な護衛体制であれば、結果は違ったかもしれません。
もう一つには、居場所の秘匿。龍馬は直前まで別の場所(近くの酢屋という材木商)を拠点にしていました。変更したのは11月15日当日の昼ごろとも言われます。その移動の連鎖のどこか一点が違っていれば、という読み方もできます。
ただしこれらは「間に合った可能性」の観察であり、「なぜそうならなかったか」を論理的に証明することは困難です。
もしも前提: 龍馬が明治政府に参画した場合
以下は反実仮想の構築です。史実から離れた思考実験として読んでください。
仮に龍馬が近江屋事件を生き延び、翌1868年の明治新政府成立時に何らかの形で参画したとします。
では「どのような役職・立場で加わりえたか」という問いから始める必要があります。
龍馬の出自は土佐藩郷士——藩士の中でも下位の家格です。明治新政府の中枢を占めた木戸孝允(長州)、西郷隆盛・大久保利通(薩摩)、板垣退助・後藤象二郎(土佐)らと比べると、藩政治の外にいた存在でした。
つまり龍馬が政府に加わるとすれば、藩の意向を背負った「藩代表型」ではなく、海援隊や個人の実績を根拠にした「実務型・独立型」の役割が想定されます。
短期で変わること(1868〜1870年代前半)
商業・海運政策への関与
龍馬が持っていたビジョンの核の一つは「商業と政治の接続」でした。海援隊は武力組織でも藩の下部機関でもなく、貿易・海運・政治工作を兼ねた混合型の組織でした。
明治政府の初期(1868〜1870年代)は、開国後の貿易制度・海運業の国家的整備という課題を抱えていました。横浜・神戸を中心とした外国商社との競合、国内商人の育成、海運ルートの確立——これらの分野に龍馬のような人物が関わっていれば、民間商業の政策的位置付けに何らかの影響があった可能性はあります。
ただし「龍馬なしには日本の商業近代化は遅れた」という断定は難しく、同時代には渋沢栄一をはじめとする実業家たちが政府と連携して産業振興を担う準備を進めていました。
士族・農民の出身格差という壁
明治政府の初期は「公卿・大名ら公議の場に参加した者」「上位武士層」が中枢を占めました。土佐郷士の龍馬が実権を持つポストに就くには、相当の政治的後ろ盾が必要だったはずです。
後藤象二郎や板垣退助という土佐閥のパトロン的存在が動けば、何らかの実務ポストに就く可能性はゼロではありません。しかし政権運営の中核に入るためのハードルは、実績だけでは超えにくかったでしょう。
中期で変わること(1870〜1880年代)
民権運動との接続
1870〜1880年代、明治政府への不満を持つ旧士族・農民らを中心に自由民権運動が広がります。土佐は板垣退助を中心にその中心地の一つになりました。
龍馬が生きていれば、この動きのどこかに位置したかもしれません。政府に留まったか、在野に転じたか——これは龍馬の気質を考えると、どちらの可能性もあります。彼は特定の藩や組織への帰属より「大きな目標に沿って動く」行動パターンを示してきた人物でした。
海外貿易・商社の系譜
史実で龍馬の構想を受け継ぐ形の商社的組織が複数生まれていきます。明治7年(1874年)には前身にあたる形の政商的企業が整備され、後に三菱・三井系の商社が発展していきます。龍馬が直接関与していれば、その系譜に龍馬の名がより明示的に刻まれたかもしれません。ただしそれが「歴史の流れを変えた」と言えるかは別の問いです。
長期で変わること(1890年代以降)
「商人出身の建国者」という物語の不在
龍馬が生き延び、明治政府に実際に加わって何らかの実績を残していたとすれば、日本の近代史には「武士ではなく、商人的発想を持つ人物が国家建設に関わった」という実例が一つ加わります。
史実の明治政府は薩長閥を中心とする武士階層が主導し、士族文化の延長線上に近代国家を設計しました。富国強兵・殖産興業という方針そのものは変わらなかったとしても、政策を担う人物の出自・価値観・発想の多様性という点で、何か違う色彩が生まれた可能性はあります。
「可能性はある」——ただし「どの程度の影響か」は慎重に留保する必要があります。
それでも変わらないこと
どの仮定を置いても変わりにくいことがあります。
明治維新の大きな方向性——封建制の解体、中央集権国家の樹立、西洋型制度の導入——は、龍馬の生死に関わらず進んでいたと考えられます。薩長閥のパワーバランス、廃藩置県の論理、憲法・議会制度の輸入という流れは、個人一人の存在で逆転するものではありません。
また、西南戦争(1877年)という士族の不満の爆発も、龍馬の参画だけでは回避できなかった可能性が高い。武士階層の解体という明治社会の根本的矛盾は、もっと大きな構造問題でした。
「船中八策」をめぐる注記
龍馬の名とともに語られる「船中八策」は、原文・写しが現存しないこと、その執筆者・内容・名称の成立過程について研究者間で異論があることから、慎重な扱いが求められる題材です。
「龍馬が新政府の青写真を描いた」という通俗的な評価は、司馬遼太郎の小説『龍馬がゆく』(1962〜66年)をはじめとする後世の作品によって大きく形作られた面があります。歴史学的な評価と文学的・大衆的評価の乖離は、龍馬という人物を考えるときに外せない視点です。
「もしも」の問い
龍馬が近江屋で死なずに明治政府に加わっていたとしても、彼が「商人的発想の持ち主」として権力中枢に入れたかどうかは、分からないことだらけです。
それよりも、この問いから浮かび上がるのは、一つのシンプルな観察かもしれません。
明治政府を主導した人物の多くは、藩という組織の後ろ盾を持っていました。「組織の外にいる人間」が組織に加わるとき、どこまで自分の発想を持ち込めるか——龍馬は生きているうちに、その答えを試す機会を持てませんでした。
「外から変えた人間が、内側に入った瞬間に何になるか」という問いは、1867年の京都だけの問いではないかもしれません。
余談——近江屋跡の今
坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された「近江屋」のあった場所には、現在「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」の石碑が立っています(京都市中京区河原町通蛸薬師下ル)。醤油商の建物はとうに失われ、周辺は繁華街の一部となっています。
毎年11月15日には有志による追悼が行われることもあり、事件から150年以上を経た今も、この場所を訪れる人が絶えません。
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