もしも研究所

チャールズ1世 ホワイトホールの処刑台 ――1649年1月30日、王を裁いた日

最期のページ · 2026-06-09 · 約6,600字 · 約13分

王は、神から直接に統治を委ねられた存在である——。 そう信じた男は、自らの臣民が組織した法廷で「暴君・反逆者・殺人者・公敵」と呼ばれ、宮殿の前の処刑台へ歩いた。

この記事では、まず史料が実際に書き残していること——裁判記録の告発文言、当事者の回想録に残る一言、王の最後の言葉を速記した人物——を確認し、そのうえで後世の解釈を層として重ねます。断定できない箇所は「〜と伝えられる」で留め、逸話は「誰が、いつ書いたか」まで遡って扱います。1649年1月30日という日付そのものにも、当時のイングランドでは別の年号が振られていた、という小さな仕掛けがあります。

1. 11年の「無議会統治」と内戦

チャールズ1世(Charles I, 1600年11月19日–1649年1月30日)は、ステュアート朝の王として1625年に即位したイングランド・スコットランド・アイルランドの君主です。スコットランドのダンファームリンに生まれ、父はイングランド王を兼ねたジェームズ1世(スコットランド王としてはジェームズ6世)。生まれながらに「王権神授説」——王は神から直接に権力を授かっているという考え——の空気のなかで育ち、自身もそれを強く信じていたと伝えられています。処刑された1649年1月の時点で、王は48歳でした。

しかし即位直後から、議会との関係はきしみ続けます。戦費調達のための課税、王妃がフランス出身のカトリックであること、国教会の高教会派的な改革——どれもが議会、とくに台頭しつつあった清教徒(ピューリタン)系の議員たちとの摩擦を生みました。1629年、議会との対立が決定的になると、チャールズはついに議会を解散し、1640年までのおよそ11年間、議会を一度も召集しない統治を続けます。歴史的に「Personal Rule(無議会統治/個人統治)」と呼ばれる期間です。

この11年は、王にとっては「議会の干渉なしに統治できた静かな時代」と映っていたとも言われます。しかし議会を通さずに財源を確保するため、本来は沿岸防衛のための臨時課税だった船舶税(Ship Money)を内陸の州にまで恒常的に課したこと、そして大主教ウィリアム・ロードのもとで進められた宗教政策の強硬化は、国内に強い不満を蓄積させていきました。そして1639年から1640年にかけて、スコットランドへの祈祷書押しつけに端を発する反発が主教戦争(Bishops' Wars)に発展し、戦費は底をつきます。1640年、王はやむなく議会を再召集することになります。

召集された議会は、王に従順ではありませんでした。わずか3週間で解散された短期議会に続いて開かれた長期議会は、王の側近であったストラフォード伯やロード大主教を弾劾し、王権の制限を要求していきます。妥協は崩れ、1642年8月、国王軍と議会軍の内戦(English Civil War、いわゆる清教徒革命)が始まります。議会軍を率いて頭角を現したのが、東部諸州選出の議員にして騎兵指揮官、オリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658)でした。

戦況は一進一退をたどりますが、1645年6月14日のネースビーの戦いで新設の「ニューモデル軍」を擁する議会軍が決定的な勝利を収め、王は劣勢に追い込まれます。1646年、チャールズはイングランドの議会軍ではなくスコットランド軍に身を委ねる形で降伏。その後1647年初めに議会派へ引き渡されました。捕われの身でありながら王は諸勢力の対立を利用して交渉を続け、スコットランドの一派と手を結んで1648年に第二次内戦として再起を図りますが、これも短期間で鎮圧されます。二度にわたって剣を交え、二度とも敗れた王を、議会派はもはや「交渉相手」としては扱いきれなくなっていました。

2. プライドのパージと、王の裁判

捕われの王をどう処遇するか——ここで議会内部が割れます。多数派は依然として王との和解・条件付き復位を望んでいました。これに対し、軍を背景にした強硬派は「王を裁判にかけ、責任を問う」という、当時のヨーロッパでは前代未聞の方向に進もうとします。

1648年12月6日、プライド大佐率いる軍部隊が下院の入口に立ちはだかり、和解派の議員を排除・逮捕する事件が起きました。歴史上「プライドのパージ(Pride's Purge)」と呼ばれる、事実上のクーデターです。排除・入場拒否を受けた議員は百数十名にのぼったと伝えられ、残された強硬派議員のみで構成された議会は、後世「残部議会(Rump Parliament、ランプ・パーラメント)」と呼ばれることになります。

残部議会は、国王裁判のための特別法廷を設けます。上院が同調を拒んだため、下院は1649年1月に単独で条例を可決し、高等法院(High Court of Justice)——王一人を裁くためだけに、その場で作られた前例のない法廷——を設置しました。国王を臣民の法廷で裁くという手続きそのものが、当時のイングランド法にもヨーロッパの慣習にも先例のないものでした。裁判長(Lord President)を務めたのは、法律家ジョン・ブラッドショー。身の危険を恐れて、鉄板を仕込んだ帽子をかぶって出廷したと伝えられます。

1649年1月20日からウェストミンスター宮殿のウェストミンスター・ホールで開かれた裁判で、王は「暴君(tyrant)・反逆者(traitor)・殺人者(murderer)・国家の公敵(public enemy)」として告発されました。

チャールズ1世は、裁判そのものの正当性を一貫して認めませんでした。彼は罪状に答える代わりに、逆に法廷へ問い返します——「私はいかなる権力によってここへ召喚されたのか。合法的な権力によって、と言っているのだ(I would know by what power I am called hither … I would know by what authority, I mean lawful)」。王を裁く権限がどこから来るのかを示せ、というこの問いに、法廷は正面から答えることができませんでした。王が答弁(罪状認否)を拒み続けたため、審理は被告不在に近い形で進み、1月27日、法廷は死刑判決を宣告します。判決は王を「暴君・反逆者・殺人者・公敵」と断じ、「その首を胴から切り離して死に至らしめる」と定めました。

判決の翌々日、1月29日付で作成された死刑令状(death warrant)には、59名の委員が署名しました。後世「国王殺し(Regicides)」と呼ばれることになる人々です。この令状の現物はいまもイギリス議会に保管されており、署名と朱の封蝋がびっしりと並ぶその一枚は、後の王政復古のときに、署名者たちの命を測る証拠そのものになります。

ここで起きたことは、単に王が殺されたという話ではありません。臣民が組織した法廷で、書面の手続きを踏んで、王を裁いた——という形式そのものが、当時のヨーロッパ世界では衝撃でした。「王は法の上にあるのか、下にあるのか」という問いに、議会側がはじめて「下にある」と言い切ったとも読める瞬間です。王が投げかけた「いかなる権力によって」という問いは、皮肉にも、その後の立憲主義がまさに答えようとし続けることになる問いでした。

3. バンケティング・ハウスの前、午後2時

1649年1月30日、ロンドンは凍える冬の朝でした。ここで、この記事のいちばん有名な逸話——「王はシャツを二枚着た」——の出どころを、はっきりさせておきます。

この話の主な一次記録は、王の寝室係(グルーム・オブ・ザ・ベッドチェンバー)を務めたサー・トマス・ハーバート(Sir Thomas Herbert, 1606頃–1682)の回想録です。ハーバートは幽閉されたチャールズの最後の期間、身の回りに付き添った人物で、王の死からおよそ30年後の1678年頃に手記を書き、それが後年『チャールズ1世治世最後の二年の回想(Memoirs of the Two Last Years of the Reign of King Charles I)』として刊行されました。そのなかでハーバートは、処刑の朝、王がこう言ったと記しています——「いつもより一枚多くシャツを着せてくれ(Let me have a shirt on more than ordinary)」。理由として王は、季節が厳しく体が震えるかもしれない、それを見た者は恐怖からだと思うだろうが、自分は死を恐れてはいない、という趣旨を語ったとされます。つまり「二枚」というのは、いつもの下着に一枚足して結果的に二枚重ねた、という意味です。

ただし、これはあくまで当事者の一人が、事件の約30年後に書いた回想である点は押さえておきたいところです。中立の裁判記録でも、複数の独立した証人が同時に書き留めた文言でもありません。よく引かれる名場面ではありますが、「王本人が確かにこの通り言った」と断定できるだけの裏づけがある、という性質の記録ではない——そう理解したうえで味わうのが、この逸話の正しい距離感です。

処刑台が組まれたのは、ホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前。父ジェームズ1世の代に建てられ、天井にはルーベンスが王権の栄光を描いた——あの建物の、すぐ正面でした。王はセント・ジェームズ宮殿から公園を横切り、番兵に囲まれて歩いたと伝えられます。そして午後2時の少し前、王は建物の一室から窓を抜けるようにして、外の黒い処刑台へ歩み出たとされます。栄光を天井に描かせた建物の窓から、王が死へ出ていく——という構図は、後世の人々の記憶に強く残りました。

処刑台のまわりには騎兵の壁が張られ、遠巻きの群衆には王の声は届きませんでした。そこで王は、最後の言葉を群衆にではなく、立ち会ったジャクソン主教(ウィリアム・ジャクソン)と、監視役の軍人トマス・トムリンソンに向けて静かに語ります。この場の言葉を速記で書き留めたのがジャクソン主教でした。王が残した一節として広く伝わるのが——「I go from a corruptible to an incorruptible Crown(朽ちる冠から、朽ちない冠へ、私は赴く)。そこにはいかなる乱れもない」。主教は「あなたは地上の冠から永遠の冠へと替わられる。よい取り替えです」と応じたと記録されています。王はまた、主教に向けて一言「REMEMBER(忘れるな)」と告げたと伝えられ、この謎めいた語は後世さまざまに解釈されてきました。短い祈りを終え、王は刑執行人に自分の合図を待つよう頼み、みずから手を差し出して合図を送り、刑は一撃で下されたとされます。

刑執行人は、報復を恐れて顔を覆い、付け髭やかつらで身元を隠していたと記録されています。その正体は当時から複数の名が取り沙汰され、絞首刑執行人リチャード・ブランドンが最有力候補とされますが、公式には明かされず、クロムウェルらごく一部の者しか知らなかったのだろう、というのが通説です。要するに、王を斬った手が誰のものだったのかは、今日まで確定していません。

首が落ちた瞬間、見物の群衆から漏れたとされる反応について、一つの有名な証言があります。当時17歳だったフィリップ・ヘンリーが、後年、「それまで一度も聞いたことのないような、そして二度と聞きたくないような呻き(such a groan as I never heard before, and desire I may never hear again)」が群衆から起こった、と書き残しました。ただしこの「呻き」を裏づける同時代の別記録は確認されておらず、王党派だったヘンリー一人の回想である点には留保が要ります。それでも——王を罰すべきだと考えた側にとってさえ、目の前で君主の首が落ちる光景は、単純に祝えるものではなかった。少なくとも、そう感じた者が確かにいた、という証言ではあります。

――ここで、日付の話をひとつ。私たちは「1649年1月30日」と書きますが、当時のイングランドの公文書は、この同じ日を「1648年1月30日」と記しました。当時のイングランドでは年の始まりが1月1日ではなく3月25日(受胎告知の祝日)だったため、1月はまだ「前の年」に属していたのです。実際、59名が署名した死刑令状も日付は「1648年」と読めます。さらにこの国はまだ**ユリウス暦(旧暦)**を使っており、大陸で普及していたグレゴリオ暦(新暦)に直すと、この日は2月9日にあたります。同じ一日に、当時の英語文書では「1648年1月30日」、現代の私たちの数え方では「1649年1月30日」、大陸の暦では「1649年2月9日」——三つの日付が重なっている。歴史の年表がときどき食い違うのは、多くがこの暦の切り替えのせいです。

4. 11年の共和制と、王政復古の報復

王の遺体は、1649年2月8日、ウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂に葬られました。ヘンリー8世とその王妃ジェーン・シーモアが眠る地下納骨所に納められたと記録されています。このとき、ジャクソン主教は英国国教会の祈祷書に沿った埋葬式を読むことを許されませんでした。ハーバートの回想には、棺が納骨所へ運ばれる途中で雪が降り、黒い覆いを白く染めた、という一節があります——生前「白の王(White King)になる」という予言があったと結びつけて語られることのある挿話です(この予言との結びつけは後世の解釈です)。

王の死後、イングランドは正式にコモンウェルス(Commonwealth、共和国)となります。やがて1653年、クロムウェルが護国卿(Lord Protector)に就き、事実上の独裁的統治が敷かれました。アイルランド・スコットランド遠征の苛烈さや、清教徒色の強い社会統制は、国内にも別種の不満を蓄積させていきます。

1658年9月3日にクロムウェルが病死すると、共和制は急速に求心力を失いました。1660年、亡命していたチャールズ2世(処刑された王の長男)が帰国し、議会の承認を得て王位に就きます。世にいう王政復古(Restoration)です。

復位した王と議会の側は、父を裁いた者たちへの清算に踏み切ります。「国王殺し」として訴追され、生存していた者のうち十数名が反逆罪で有罪となり、絞首・内臓抉り・四つ裂きという苛烈な刑で処刑されました。すでに死去していた者も例外とはされません。1661年1月30日——チャールズ処刑からちょうど12年後の同じ日付が選ばれました——クロムウェル、裁判長を務めたブラッドショー、娘婿アイアトンの三人の遺体が墓から掘り起こされ、タイバーンで死後の絞首・斬首という象徴的な刑にかけられたと記録されています。クロムウェルの首は長い槍の先に刺され、ウェストミンスター・ホールの屋根の上に、その後何十年ものあいだ晒されました。王を裁いた法廷が開かれた、まさにその建物の上で、です。

それでも、1649年1月30日にホワイトホールで起きたことは消えませんでした。「臣民が法廷を開き、王に判決を下し、宮殿前で処刑した」という事実そのものは、ヨーロッパの各国に衝撃として伝わり、王権神授説の絶対性に最初のひびを入れたとされます。のちの名誉革命(1688)でジェームズ2世が亡命に追い込まれ、議会主権が確立していく流れも、この記憶のうえに重ねて考えられることが多い、と歴史家たちは指摘しています。

5. 殉教者となった王と、著者の分からない本

処刑された王は、皮肉にも死後、生前よりも強い力を持ちはじめます。その触媒になったのが、処刑からまもない1649年に刊行された一冊の本、『アイコン・バシリケ(Eikon Basilike、「王の似姿」の意)』でした。王自身の祈りと省察を集めたという体裁で、扉絵には、地上の王冠を手放し、茨の冠を受け取り、天上の栄光の冠を見上げるチャールズ——つまりキリスト教の殉教者としての王が描かれていました。

この本は爆発的に売れ、版を重ねます。処刑を「暴君の除去」と説明したかった共和国側の言い分を、静かな祈りの言葉が上書きしていきました。効果は制度にまで及びます。王政復古の後、1月30日は英国国教会の祈祷書に**「祝福されし殉教者チャールズ王」を記念する断食の日**として書き加えられました。首を落とされた王が、公式の祈りの対象になったのです。

ところが、この本には一つ、面白い難問が付いています——本当に王が書いたのか、という問題です。王政復古後、聖職者ジョン・ゴーデンが「あれは自分が書いたものだ」と名乗り出ました。以来、王の真筆なのか、ゴーデンが王の草稿を素材に編んだものなのか、学者のあいだで論争が続いています。近年は、ゴーデンが王の文章を土台にしつつ相当な手を加えて仕上げた、という見方が有力とされますが、決着はしていません。殉教者の肖像をこれほど広めた本の著者が、当の殉教者だったのかどうかも確かめきれない——ここにもまた、「記録は残ったが、それを裏づける記録は残らなかった」という、歴史のいつもの非対称が顔を出します。

「もしも」の問い

もしチャールズ1世が、王権神授説をいったん脇に置き、1640年代のどこかで議会と本格的に妥協していたら——。 1649年1月30日の処刑台は、組まれなかったかもしれません。

ただし、それで近代の立憲主義が遅れたのか、それとも別の形でもっと穏やかに辿り着いたのか——どちらだとも言い切れません。歴史は同じ実験を二度は行わないからです。

確かなのは、王ですら法のもとで裁かれうる、という前例が、いったん残されたという一点です。 バンケティング・ハウスの前の凍えた午後は、その意味で、その後の何百年かの政治制度が踏むことになる最初の一段だった、と言われます。


主な参考文献

本記事は note では公開していない、The IF Lab サイト独占コラムです。

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