もしも、徳川家康が関ヶ原で敗れていたら?
もしも時間 · 2026-06-02 · 約3,600字 · 約7分
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、早朝。
美濃・関ヶ原。
豊臣秀吉の死(1598年)からおよそ2年、天下の主導権をめぐって、徳川家康 を総大将とする東軍と、石田三成 を中心とする西軍が、この狭い盆地で正面から激突します。両軍合わせて十数万——日本史上でも屈指の規模の野戦でした。
通説では、戦いは午前中に始まり、当初は西軍がやや有利、あるいは互角で推移したとされます。ところが昼前後、西軍に属していたはずの 小早川秀秋 が松尾山から東軍へと寝返り、西軍の側面が崩壊。これを契機に大谷吉継隊が壊滅し、戦線全体が一気に瓦解した——と伝わります。決戦は、わずか半日で東軍の勝利に終わりました。
この勝利によって、家康は事実上の天下人となり、3年後の慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。以後 約260年 にわたる江戸時代が始まりました。
ここで、本記事の「もしも」を立てます。
もし関ヶ原で、小早川秀秋が西軍を裏切らず——あるいは寝返ったとしても帰趨が変わらず——西軍(石田三成方)が勝っていたら、その後の近世日本・江戸260年は、どう書き直されていただろうか?
🌀 The IF Lab 編集部より:
本記事は、史実(関ヶ原で東軍=家康が勝った)を踏まえた上で、本戦の勝敗が逆転していたらという限定条件で反実仮想を行います。「秀吉が死ななかった」「そもそも東西対立が起きなかった」のような前提崩壊型ではありません。あくまで、関ヶ原本戦という 一日の合戦の結果 にだけ手を入れるシナリオです。
1. 実際に起きたこと(史実の確認)
関ヶ原に至る政局と、本戦の流れを最小限に整理します。
秀吉の死と五大老・五奉行体制(1598〜)
- 1598年、豊臣秀吉が死去。嫡子・秀頼 はまだ幼少
- 政務は 五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝ら)と 五奉行(石田三成ら)による合議体制に委ねられた
- 重しであった前田利家が翌1599年に死去すると、最大の実力者であった家康と、奉行筆頭格の石田三成の対立が表面化していく
東西対立から開戦へ(1600)
- 家康は会津の上杉景勝に上洛を求め、応じない上杉討伐を名目に東へ進発
- その隙に、石田三成が毛利輝元を西軍の総大将に擁立して挙兵
- 家康は反転西上し、東海道を進む。両軍は美濃で対峙する
9月15日:関ヶ原本戦
- 早朝、霧の中で戦端が開かれる
- 西軍は石田三成・大谷吉継・宇喜多秀家・小西行長らが布陣。地形上は西軍がやや有利な配置だったとも言われる(諸説あり)
- 南宮山には毛利秀元・吉川広家ら、松尾山には小早川秀秋が布陣していたが、これらの大軍は 本戦に十分に動かなかった
- 昼前後、小早川秀秋が東軍へ寝返り、大谷隊が崩壊。西軍は総崩れとなる
- 石田三成は逃走後に捕縛され、小西行長・安国寺恵瓊とともに処刑された
戦後処理:大名改易と江戸幕府
- 西軍に与した大名は大規模に改易・減封され、その所領が東軍諸将に再分配された
- 毛利氏は大幅減封、上杉氏も減封
- 1603年、家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開く
- 豊臣家は摂津・河内・和泉の一大名へと後退し、後の大坂の陣(1614〜15年)で滅亡する
ここで重要なのは、関ヶ原の勝敗そのものが、戦力差というより『誰が動き、誰が動かなかったか』という政治的駆け引きの結果 に近かった、という点です。本記事の「もしも」は、この 駆け引きの帰結が一段階ずれていたら 何が変わるか——という限定条件です。
2. 分岐点 ——『動かなかった大軍』の去就
関ヶ原の勝敗を分けたのは、純粋な兵力の衝突よりも、戦場にいながら十分に戦わなかった部隊の去就 だった、というのが通説の整理です。
- 小早川秀秋(松尾山・約1万5千とも):開戦後しばらく動かず、家康方の催促を受けて西軍へ攻めかかったとされる。この寝返りが大谷隊崩壊の直接の引き金になった
- 毛利秀元・吉川広家(南宮山):西軍の総大将・毛利輝元の一族でありながら、吉川広家が東軍と内通して進路をふさいだため、毛利勢の主力は本戦にほとんど参加できなかった
- 西軍の指揮統一の欠如:石田三成は奉行としての実務能力は高かったものの、諸大名を一元的に動かす軍事的権威には乏しく、布陣はしても連動した攻撃に持ち込めなかった、とされる
これらは、いずれも 後世の編纂史料や軍記物に多くを依拠 しており、近年の研究では小早川の寝返りの時刻や、布陣図そのものについても再検討が進んでいます。本記事は、現在広く知られる通説を土台にしつつ、細部には諸説があることを前提とします。
IFの前提
ここでの「もしも」を、具体的に絞ります。
関ヶ原本戦において、(a)小早川秀秋が西軍にとどまって東軍右翼を突き、(b)南宮山の毛利勢が吉川の妨害を越えて家康本隊の背後に展開していたら——西軍が本戦で勝利していた可能性。
これは「戦場にいた大軍が、本来の旗色のとおりに動いていたら」という条件です。秀吉の死後政局や、三成と家康の対立構造そのものには手を入れません。あくまで、9月15日という一日の 部隊の去就 に絞っています。
変化の確率
編集部として、この「もしも」が実際に起きていた確率を評価すると——
-
中程度(★★★☆☆):本能寺のような「個人の認知」型の分岐に比べると、関ヶ原は 複数の大名の選択が同時に絡む ため、別の結末がありえた幅は相対的に広い、と考えます。小早川の寝返りも、毛利勢の不参加も、戦後になって初めて『必然』に見えるようになった部分が大きい
-
ただし、家康はこの決戦に向けて、開戦前から諸大名へ膨大な書状を送り、調略(寝返り工作)を周到に進めていたとされます。戦場の外での政治戦で、家康がすでに優位を築いていた という見方に立てば、本戦だけが逆転しても、その後の巻き返しは別問題になります(後述)。
本記事の「もしも」は、確率としては中程度で、起きていたら近世日本の枠組みが大きく変わる——という反実仮想です。
3. 世界はどう変わるか(短期・中期・長期)
短期(1600〜1610年代):家康方の崩壊と豊臣政権の延命
西軍が関ヶ原本戦で勝っていた場合、まず確実に起きるのは、家康の天下人ルートが、ここで一度断たれる ということです。
本戦で敗れれば、家康本隊は美濃から東海道を退かざるを得ず、東軍に与した福島正則・黒田長政・加藤清正といった豊臣恩顧の大名は、立場の再考を迫られます。彼らはもともと「三成憎し」で東軍に付いた面が強く、家康個人への忠誠で結束していたわけではなかった とされます。
西軍勝利の世界線では、
- 西軍の名目上の総大将・毛利輝元と、実務を握る石田三成が、大坂城の豊臣秀頼を奉じる形で主導権を握る
- 家康は本拠の関東へ後退。即座に滅亡するとは限らないが、天下の調停者としての権威は大きく失われる
- 豊臣政権は、秀頼の成長を待つ「延命」期に入る
つまり、家康による江戸幕府開設(1603年)は、この世界線では成立しない、あるいは大きく形を変える ことになります。
中期(1610年代〜1600年代後半):豊臣体制下の大名連合という不安定
ここからが、実は最も難しいところです。「西軍が勝つ」ことは、ただちに「安定した新政権が生まれる」ことを意味しません。
西軍は、石田三成・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝といった有力者の 連合体 であり、その内部に確固たる序列があったわけではありません。共通の敵(家康)が後退したあと、
- 誰が幼い秀頼の後見役として実権を握るのか
- 毛利と石田の間で主導権をどう分けるのか
- 関東に残った家康勢力をどう処理するのか
——といった新たな対立軸が、すぐに浮上した可能性が高い。歴史には、共通の敵を倒した直後に勝者側が分裂する例が数多くあります。西軍勝利後の日本も、豊臣家を頂点に戴きつつ、有力大名が再び覇権を争う『第二の関ヶ原』 に向かった可能性は、決して低くありません。
その意味で、西軍勝利が直線的に「豊臣260年」につながるとは限りません。むしろ、天下の重心が再び流動化し、誰が次の安定政権を築くかは白紙 になった——というのが、より慎重な見立てです。
長期(1600年代後半〜1800年代):江戸幕府なき近世日本
仮に、豊臣家を中心とする何らかの安定政権が成立したと仮定すると、江戸幕府の代名詞だった諸制度は、別の形になっていた可能性があります。
- 参勤交代 のような、徳川幕府が大名統制のために整備した制度は、そのままの形では存在しない
- 鎖国体制(1630年代に段階的に完成)も、為政者が変われば別の対外政策になりえた。豊臣政権期は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の記憶が新しく、対外関係の組み立て方は徳川とは異なった可能性がある
- 江戸という都市が、政治の中心として巨大化したかどうかも不透明。上方(大坂・京)の比重が、より長く保たれた可能性
- 武家社会の身分秩序や、約260年に及ぶ長期の平和(パクス・トクガワーナとも呼ばれる)が、同じ形で実現したかは未知数
ただし、これは「明るいIF」とは限りません。徳川幕府がもたらした長期の安定は、結果として 国内の経済成長・町人文化の成熟・人口増加 を支えた側面があります。その安定が別の政権で再現できなければ、近世日本は より長い内乱と分裂の時代 を経験した可能性もあります。19世紀の対外圧力(欧米列強の接近)を、より不安定な国内体制で迎えることになれば、近代化のシナリオも大きく変わったはずです——が、その先は本記事の射程を超える別の問いです。
4. 史実では、なぜ西軍勝利が起きなかったか
ここで、史実に戻ります。西軍が本戦で敗れた理由を、リアリティチェックとして整理しておきます。
- 家康の事前の調略:家康は開戦のはるか前から、諸大名へ膨大な書状を送り、寝返りや中立化の約束を取り付けていたとされます。小早川秀秋や吉川広家の去就も、当日突然決まったのではなく、戦場の外での political な根回しの結果 だったという見方が有力です
- 西軍の指揮統一の欠如:総大将の毛利輝元は大坂城に在り、関ヶ原の現場で全軍を一元指揮する司令塔が事実上不在でした。石田三成には諸大名を強制的に動かす軍事的権威が乏しく、布陣はしても連動攻撃に持ち込めなかった、とされます
- 動機の温度差:西軍に名を連ねた大名の中にも、積極的に三成を支持していたわけではない者が含まれていました。「家康打倒」という旗印が、東軍側の「三成打倒」ほどには諸大名を熱くまとめきれなかった、という整理です
これらの理由は、いずれも 後世の軍記物や編纂史料に多くを依拠 しており、現代の研究では一次資料(当時の書状など)との突き合わせによる再検討が進んでいます。「小早川は本当に戦の最中に迷ったのか」「布陣図はどこまで正確か」——いずれも諸説あります。
つまり、西軍の敗北は単なる兵力差ではなく、家康の事前工作 + 指揮系統の不統一 + 動機の温度差 という複数の条件が重なった結果であり、だからこそ後世から「もし」を立てやすい合戦になっている——という整理が、現代の標準的な見方に近いと思います。
5. ありえた世界線——もう一つの『1600年』
仮に、すべての条件が揃って、関ヶ原本戦で西軍が勝利し、豊臣家を頂点とする何らかの体制が立ち上がっていたら——その後の近世日本は、おそらく次のような特徴を持ったはずです。
- 1600年:関ヶ原本戦で西軍勝利。家康は関東へ後退し、天下の調停者としての権威を失う
- 1600年代前半:大坂城の豊臣秀頼を奉じ、毛利・石田を中心とする大名連合が主導権を握る——ただし内部の主導権争いは未解決
- 江戸幕府の開設(1603年)→江戸260年というルート自体が 消滅、または大きく形を変える
- 参勤交代・鎖国・武家諸法度といった徳川幕府の統制制度は、そのままの形では成立しない
- 政治の重心が江戸ではなく上方(大坂・京)に置かれ、都市発展の地図が書き換わる可能性
- 共通の敵を失った勝者連合が分裂し、『第二の天下分け目』 が早期に起きる可能性も同時に存在
- 19世紀:対外圧力を、徳川とは異なる国内体制で迎えることになり、近代化のタイミングと形が変わる
これは「もし」の限定条件下で導いた一つの解釈にすぎず、史実とは異なります。ただ、関ヶ原という 一日の合戦の結果 が、近世日本の260年を別の形に組み替えた可能性は、十分にあり得たということです。
6. 最後の問い
歴史を変えるのは、巨大な兵力差ではなく、戦場にいた者たちが、どちらの旗の下で動くかを決めた、その選択の積み重ね ——という、極めて静かな分岐点だったのかもしれません。
関ヶ原の松尾山で、小早川秀秋がどちらに矛先を向けるか迷っていた数刻。 南宮山の毛利勢が、進むか留まるかを決めかねていた時間。
その一つひとつの選択が、もし違う向きに転んでいたら——江戸という都市の運命も、260年の平和の形も、別のものになっていたかもしれません。
両者を分けたのは、武力でも兵数でもなく、戦場の外で、どれだけ早く・どれだけ広く、人の心を動かす手を打てていたか ——だったのかもしれません。
私たちもまた、大きな勝負の帰趨が決まるずっと前に、静かな根回しと信頼の積み重ねで、すでに半分は決まっているのかもしれません。
この「もしも」を、別角度で楽しむ
関ヶ原の戦い・戦国末期の天下分け目は、漫画・歴史小説・映画でも多角的に描かれてきました。本記事の反実仮想と読み比べると、当時の政治的駆け引きの構造がより立体的に見えてきます。
- 小説『関ヶ原』(司馬遼太郎・新潮社) — 石田三成と徳川家康の対立を、人物の内面から描いた定番。本戦に至る政治戦の機微を追うのに向く。
- 漫画『センゴク一統記』『センゴク権兵衛』(宮下英樹・講談社) — 仙石秀久を主人公に、関ヶ原に至る戦国末期を緻密に再構築。一次資料と現代解釈の橋渡し。
- 書籍『関ヶ原合戦』関連の現代史研究・解説書 — 近年の再検討(布陣・調略・寝返りの実像)に触れる。
映像で深掘りする選択肢
関ヶ原の戦いや徳川家康・石田三成を題材にした大河ドラマや時代劇は、NHKをはじめ民放各局でも繰り返し制作されてきました。スカパーの時代劇専門チャンネルでは、過去の大河ドラマ・時代劇作品が放送・配信されており、ひとつの選択肢として挙げておきます。
🌀 編集部メモ:
本記事は反実仮想(歴史IF)です。事実関係は当時の書状などの一次資料・現代の戦国史研究を参照していますが、解釈・推論部分は IF Lab 編集部の独自整理です。小早川秀秋の寝返りの時刻、関ヶ原の布陣図、毛利・吉川の動向、家康の調略の実像——いずれも諸説あります。
📚 諸説ある題材です
関ヶ原本戦の経過、小早川秀秋が寝返ったタイミング、南宮山の毛利勢が動かなかった理由、両軍の正確な兵数や布陣図——いずれも、研究者の間で諸説があり、近年は軍記物や後世の編纂史料を再検討する動きが進んでいます。本記事はその中で、現在広く知られる通説を土台にしつつ、後世編纂史料との差分を hedge する立場を採用しています。
※別の解釈・反論も歓迎しています。気持ちよく読める形でいただけると嬉しいです。
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note では語りきれない短編コラムを、サイトでも少しずつ公開しています。
📖 もう少し読み広げる選択肢
関ヶ原・戦国時代の関連本を、もう少し読み広げたい場合。
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