もしも研究所

もし関ヶ原で西軍が勝っていたら、江戸時代は存在したのか

歴史のあやまち · 2026-09-30 · 約1,148字 · 約2分

この記事は、特定の個人や企業を断罪するためのものではありません。 公開されている資料や報道をもとに、ある時代の選択肢を振り返る思考実験です。 実際の歴史は一つの判断だけで決まるものではなく、 経済・技術・制度・人間心理が重なって動きます。


1600年9月15日(慶長5年)、美濃国の関ヶ原盆地。

東西に分かれた諸将の軍勢が激突した合戦は、わずか半日ほどで決着がつきました。 小早川秀秋の寝返りを機に東軍が優勢となり、石田三成が率いる西軍は壊滅します。

この一戦が、その後260年以上続く徳川幕府の礎を築いたとされています。 もし西軍が勝っていたら、日本の近世はどう変わっていたのか。


1. まず事実 — 何が起きたか

豊臣政権の内紛と東西の対立(1598年〜1600年)

1598年、豊臣秀吉が没します。 後継者の豊臣秀頼はまだ幼く、五大老・五奉行体制による合議制が設けられましたが、徳川家康は次第に独自の行動をとるようになります。

家康の政治的台頭に反発した石田三成は、宇喜多秀家・毛利輝元らとともに「内府違ひの条々」を発し、家康の非を訴えます。 こうして諸大名は東軍(家康方)と西軍(三成方)に分かれていきます。

関ヶ原の戦い(1600年9月15日)

関ヶ原での決戦は、当初西軍が地の利を持つ形で始まりました。 南宮山の毛利秀元・長束正家・長宗我部盛親らの西軍後続部隊は、東軍の背後に位置していましたが、動かないまま終わります。

決定的な転換は、松尾山に陣取っていた小早川秀秋の東軍への寝返りでした。 秀秋の軍が大谷吉継の陣に攻め込み、この崩壊が連鎖して西軍は全面敗走します。

その後の体制(1600年〜1615年)

関ヶ原の後、家康は1603年に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。 1615年の大坂夏の陣で豊臣秀頼が没したことにより、徳川政権の全国統治が確立されました。


2. 分岐点 — どの瞬間に別ルートがあり得たか

分岐点A: 南宮山の毛利軍が動いていたら 毛利秀元率いる西軍後続約3万が、関ヶ原の本戦中に東軍背後を突いていたとすれば、戦況は大きく変わっていた可能性があります。 彼らが動かなかった理由については、毛利氏家臣の吉川広家が「東軍と事前に内通していた」という説が有力視されていますが、諸説あります。

分岐点B: 小早川秀秋が寝返らなかったら 小早川秀秋が寝返らず西軍のまま戦い続けていたとしたら、大谷吉継の防衛線は崩れず、西軍は持ちこたえた可能性があります。

分岐点C: 大坂城の毛利輝元が積極的に出陣していたら 西軍総大将として名目上の旗頭であった毛利輝元は、関ヶ原に姿を現しませんでした。 輝元が積極的に出陣し、西軍の士気と統一指揮を整えていたなら——という分岐です。

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