もしも研究所

もし関ヶ原で西軍が勝っていたら、江戸時代は存在したのか

歴史のあやまち · 2026-02-03 · 約3,100字 · 約7分

この記事は、特定の個人や企業を断罪するためのものではありません。 公開されている資料や報道をもとに、ある時代の選択肢を振り返る思考実験です。 実際の歴史は一つの判断だけで決まるものではなく、 経済・技術・制度・人間心理が重なって動きます。


1600年9月15日(慶長5年)、美濃国の関ヶ原盆地。

東西に分かれた諸将の軍勢が激突した合戦は、わずか半日ほどで決着がついたとされます。小早川秀秋の寝返りを機に東軍が優勢となり、石田三成が率いる西軍は壊滅しました。

この一戦が、その後260年以上続く徳川幕府の礎を築いた、と多くの歴史研究は指摘します。もし西軍が勝っていたら、日本の近世はどう変わっていたのか。


1. まず事実 — 何が起きたか

豊臣政権の内紛と東西の対立(1598年〜1600年)

1598年、豊臣秀吉が没します。後継者の豊臣秀頼はまだ幼く、五大老・五奉行体制による合議制が設けられましたが、徳川家康は次第に独自の行動をとるようになります。

家康は秀吉の遺命に反するとされる大名家との縁組を進め、伏見・大坂を行き来して政治の実権を握ろうとしたと記録されています。家康の政治的台頭に反発した石田三成は、宇喜多秀家・毛利輝元らとともに「内府違ひの条々」を発し、家康の非を訴えます。こうして諸大名は東軍(家康方)と西軍(三成方)に分かれていきます。

関ヶ原の戦い(1600年9月15日)

関ヶ原での決戦は、当初西軍が地の利を持つ形で始まりました。布陣だけを見れば、西軍が東軍を包み込む有利な配置だったとする見方もあります。南宮山の毛利秀元・長束正家・長宗我部盛親らの西軍後続部隊は、東軍の背後に位置していましたが、動かないまま終わります。

決定的な転換は、松尾山に陣取っていた小早川秀秋の東軍への寝返りでした。秀秋の軍が大谷吉継の陣に攻め込み、この崩壊が連鎖して西軍は全面敗走します。

その後の体制(1600年〜1615年)

関ヶ原の後、家康は1603年に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。西軍諸将は領地没収・大幅減封となり、豊臣家自体も摂津・河内・和泉を中心とする約65万石の一大名に格下げされたとされます。1615年の大坂夏の陣で豊臣秀頼が没したことにより、徳川政権の全国統治が確立されました。


2. 分岐点 — どの瞬間に別ルートがあり得たか

分岐点A: 南宮山の毛利軍が動いていたら

毛利秀元率いる西軍後続約3万が、関ヶ原の本戦中に東軍背後を突いていたとすれば、戦況は大きく変わっていた可能性があります。彼らが動かなかった理由については、毛利氏家臣の吉川広家が「東軍と事前に内通していた」という説が有力視されていますが、諸説あります。

分岐点B: 小早川秀秋が寝返らなかったら

小早川秀秋が寝返らず西軍のまま戦い続けていたとしたら、大谷吉継の防衛線は崩れず、西軍は持ちこたえた可能性があります。秀秋が松尾山の陣でしばらく動かず、家康の鉄砲による催促で寝返ったとする逸話も、後世の創作と見る研究者もいますが、いずれにせよ秀秋の選択が戦局を決めたのは確かとされます。

分岐点C: 大坂城の毛利輝元が積極的に出陣していたら

西軍総大将として名目上の旗頭であった毛利輝元は、関ヶ原に姿を現しませんでした。輝元が積極的に出陣し、西軍の士気と統一指揮を整えていたなら——という分岐です。総大将不在は、寝返りを誘発する温床にもなった、と指摘されることがあります。


3. IFルートA — 西軍勝利、豊臣政権の継続

仮に分岐点A〜Cのいずれかが現実とは異なる形で進み、西軍が関ヶ原で勝利していたとしたら、最初に起きるのは、徳川家康の政治的失墜です。家康は江戸に退き、関東250万石の処遇をめぐる政治交渉が始まる——あるいは追討軍が江戸に向かう——いずれのシナリオも史料では確認できませんが、想定可能な展開とされます。

その後、豊臣秀頼を中心とする政権が形式的に再構築される可能性が高いと考えられます。ただしここで重要なのは、「西軍が勝つ=石田三成の独裁」ではないことです。実際の西軍は、毛利・宇喜多・上杉・島津など利害の異なる大大名の連合体でした。家康という共通の敵が消えた後、彼らがどう権力を分け合うかは、極めて流動的だったはずです。

研究者の間では、「家康なき豊臣政権は、内部対立で再び混乱に陥った可能性がある」とする見方も強くあります。秀頼が成人するまでの十数年間、誰が後見役を務めるか、五大老の枠組みは維持されるか——これらが新たな火種になりえました。

つまり、西軍勝利は「江戸時代の不在」を意味する一方で、必ずしも「豊臣安定政権」を意味するわけではない。第二の関ヶ原、あるいは三度目の戦国時代が始まっていた可能性もある、というのが冷静な見立てです。


4. IFルートB — 参勤交代も鎖国もない近世

江戸幕府が存在しないとなれば、近世日本の社会制度そのものが、別の形になっていた可能性があります。

たとえば参勤交代は、徳川幕府が大名統制のために制度化した独特の仕組みです。江戸と国元を一年交代で行き来する制度がなければ、江戸は政治都市として巨大化することなく、京都・大坂を中心とする西国主導の地理が続いた可能性があります。商人文化、街道経済、宿場町の発展——いずれも参勤交代の副産物でした。

鎖国体制も、徳川幕府の選択でした。1633〜1639年にかけて段階的に強化されたこの制度は、キリスト教禁圧と幕府への権力集中を目的としていたとされます。豊臣政権がそのまま続いていれば、秀吉の朝鮮出兵の延長線で大陸との関係はもっと荒れた可能性がある一方、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスとの関係はより開放的だった可能性もあります。日本のキリシタンが世代を超えて維持され、開国は数百年早く起きていた、という想像も成り立ちます。

身分制度、士農工商、檀家制度、五人組——これらが江戸幕府の安定を支えた制度だったとすれば、それらがない近世日本は、社会の組み立てそのものが異なります。江戸後期の停滞も起きないかもしれない代わりに、現代に伝わる伝統文化(茶道・歌舞伎・浮世絵・俳諧)の多くは、別の形になっていた可能性があります。


5. IFルートC — 近代日本はまったく違う姿に

近代以降への影響はさらに大きい。

実際の歴史では、明治維新(1868年)によって江戸幕府が倒され、近代国家が成立しました。維新の駆動力の多くは「薩長土肥」、すなわち西軍ゆかりの西国諸藩でした。関ヶ原で勝った徳川氏が築いた体制を、関ヶ原で負けた家の末裔が倒した——という長期スパンの逆転構図がそこにあります。

西軍が関ヶ原で勝っていれば、この「260年越しのリベンジ」自体が存在しなくなります。近代化のドライブは、別の地域・別の勢力から生まれていた可能性があります。あるいは、開国そのものが数百年早く、産業革命のタイミングが日本でも違っていた可能性もあります。

ただし、明治維新の成功は「中央集権的な江戸幕府を倒す」という単一の権力構造があったからこそ素早く進んだ、という見方もあります。豊臣連合政権が緩やかな分権体制のまま続いていれば、近代化はむしろ遅れた可能性もある、という逆の見立ても成り立ちます。


「もしも」の問い

関ヶ原は、半日で決着した戦いとされます。けれどその半日が、260年の幕府と、その上に組み立てられた近代日本のかたちを決めた、と考えると、歴史の不思議さに改めて気づかされます。

小早川秀秋が松尾山で動かないまま夕方を迎えていたら。毛利輝元が大坂を出て関ヶ原に向かっていたら。私たちの知る日本史は、章立てから書き直されていたかもしれません。

もし、あなたが東軍と西軍のどちらかに参陣する大名だったとして、9月15日の朝、どちらの陣営に立っていたでしょうか。

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