もしも研究所

もしペリーが来航しなかったら、日本の開国はいつ起きたのか

歴史のあやまち · 2026-10-26 · 約2,709字 · 約5分

この記事は、特定の個人や企業を断罪するためのものではありません。 公開されている資料や報道をもとに、ある時代の選択肢を振り返る思考実験です。 実際の歴史は一つの判断だけで決まるものではなく、 経済・技術・制度・人間心理が重なって動きます。


まず事実——1853年、ペリー艦隊が浦賀に来航した

1853年7月、アメリカ海軍提督マシュー・ペリー率いる艦隊4隻が相模湾の浦賀沖に来航し、開国と通商を求める大統領書簡を幕府に提出した。翌1854年に再来航し、日米和親条約が締結された。これにより下田と函館が開港され、江戸幕府の鎖国体制(対外的な通商・外交の制限)に変化が生じた。

1858年には日米修好通商条約が締結され、横浜・長崎・箱館・兵庫・新潟が開港された。この条約は関税自主権を日本が持たない不平等条約であったと評価されている。ペリー来航から明治維新(1868年)まで15年の時間がかかった。

ペリー来航以前にも、18世紀末以降ロシア・イギリスなどの外国船が通商や測量を求めて日本近海に来航した記録があり、1825年には「異国船打払令」が幕府によって出されていた。


なぜ「ペリーが来航しなかったら」が分岐点なのか

ペリー来航は日本史の教科書的な分岐点として記憶されているが、「ペリーという一人の人物の来航」が開国の唯一の原因だったかどうかは、歴史家の間でも問いが立てられている。

19世紀半ばのアジア太平洋地域では、英国・フランス・ロシア・アメリカが通商路と補給基地を求めて積極的に動いていた。1842年のアヘン戦争後、清が開港を余儀なくされた事実は江戸幕府も把握しており、「欧米列強の圧力」は特定の一国・一艦隊の問題ではなかった。

「ペリーが来なかった世界」は「欧米の圧力がなかった世界」ではなく、「別の国・別の形で同様の圧力がかかった世界」として考える必要がある。


分岐点——ペリー以外の「開国への圧力」は何があったか

ペリー来航の前後、複数の外国勢力が日本への接触を試みていた。

ロシアは18世紀末から千島・蝦夷地方面での接触を繰り返し、1853年にはプチャーチン提督が長崎に来航して通商を求めていた(ペリーと同年)。イギリスは中国・インドでの利権拡大を進めながら、日本との接触機会も探っていた。

ペリーが来航しなかった場合、1850年代以降のアジア太平洋での欧米勢力の動きを考えると、別の国・別の機会に同様の通商要求が行われた可能性は高い。問題は「開国が起きたか」より「どの国との条約から始まり、その条件はどうだったか」という点にある。


IFルートA——ロシアを窓口とした開国が先行した

控えめな可能性として、アメリカより先にロシアとの交渉が正式化し、開国の主体がロシアとの条約から始まったシナリオがある。

プチャーチンはペリーと同年に来航しており、交渉の経緯は異なるが、幕府との接触の機会はあった。もしロシアとの通商条約が先に成立していたとすれば、以後の外交の枠組みは異なる形をとった可能性がある。

ただし、ロシアとの開国が「不平等条約のない対等な条約」になったかどうかは、当時の国際関係の力学を考えると楽観的に見ることは難しい。19世紀の通商条約の多くは、軍事力の非対称性を背景に結ばれていた。


IFルートB——幕府が自発的な部分開国を選んでいた可能性

もう一つの視点として、幕府が外国の強制的な圧力を受ける前に、貿易利益を求めて自発的な部分的開国を選んでいたシナリオがある。

オランダとの長崎出島での貿易は17世紀以来継続されており、幕府はオランダ経由で欧州の情報を得ていた。18世紀末以降、蘭学者や一部の政治家の間では対外開放の必要性を論じる議論が存在していた。

この方向が進んでいたとすれば、外部圧力による強制的な開国ではなく、より条件を整えた形での通商開始が可能だったかもしれない。ただし、鎖国を支えていた政治的合意(武家政権の正統性、朝廷との関係、各藩の利害)の再編が必要であり、自発的な開国がどのような政治的混乱を生じさせたかも別の問いになる。


でも変わらなかったかもしれない要素

「ペリーが来なければ日本の近代化が別の形だった」という仮定には、いくつかの留保が必要だ。

19世紀の産業革命と帝国主義的拡張は、特定の国の「来るか来ないか」で日本への影響が止まる性質のものではなかった。蒸気船の実用化と海軍力の格差は、この時代の欧米と日本の間に構造的に存在していた。

また明治維新という政治変動は、ペリー来航だけでなく、幕府の権威低下・各藩の台頭・尊王攘夷運動・朝廷との関係など複数の国内政治的要因が重なって生じた。「外圧の形が変わっても」日本の政治的変革の圧力は別のかたちで積み上がっていた可能性がある。


現代への教訓——「外圧」と「内部変革の準備」

ペリー来航が象徴するのは、「外部からの強制的変化」と「内部の変革準備」の関係だ。

外圧は変化の「引き金」になることがある。しかし引き金が引かれたとき、その変化がどの方向に向かうかは、引き金以前の社会の蓄積によって決まる部分が大きい。明治維新という変革が「開国から15年」という短い期間で起きた背景には、蘭学・洋学を通じた知識の蓄積、各藩の人材育成、経済変化が下地としてあったという評価がある。

「外部環境が変わったとき、自分たちは何を準備していたか」という問いは、組織や個人の変化対応力を考えるときにも当てはまる。開国の歴史は、その準備と対応のありさまを映す鏡として見ることができる。


関連する本・映画

ペリー来航と日本の開国史をもっと深く知るために。


本稿の史実部分は、ペリー来航に関する各種歴史研究書・外交史料・複数の学術論文をもとに構成しています。開国の原因と経緯については歴史家によって評価が分かれており、本稿はその一解釈を示すものではありません。

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