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もしも、高杉晋作が結核で早世しなかったら?

もしも時間 · 2026-06-14 · 約3,500字 · 約7分

慶応3年4月14日(西暦1867年5月17日)、長州・下関。

長州藩士 高杉晋作 は、肺結核のため、療養先で息を引き取りました。満27歳8か月、数えで29歳。王政復古の大号令(慶応3年12月9日・1868年1月3日)まで、わずか半年あまり。戊辰戦争の開幕も、明治改元も、彼は一日も見ていません。

高杉が死んだのは、明治維新が「これから始まる」という、まさにその入口でした。倒幕の段取りはほぼ整い、薩長は手を結び、長州は四境戦争で幕府軍を退けていた。あとは京都で政局が雪崩を打つだけ——その雪崩を、彼は枕の上で待つこともできずに退場しています。

ここで奇妙なのは、高杉が「倒幕の準備をした人」でありながら、「倒幕後の世界を生きなかった人」だという点です。維新の門を開けた当人が、門の手前で消えた。これは、本記事の「もしも」を立てるのに、ほとんど誂えたような構図です。

もし高杉晋作が、この肺結核を生き延びていたら——明治の長州閥、新政府の人事と路線、そして近代国家の設計は、どこがどう書き直された可能性があるだろうか?

🌀 The IF Lab 編集部より:

本記事は、史実(高杉が慶応3年に肺結核で病死した)を踏まえた上で、その病死を免れて存命だったという限定条件で反実仮想を行います。「結核という病が存在しなかった」「長州が負けていた」のような前提崩壊型ではありません。あくまで高杉本人が 数年〜十数年長く生きていたら という、人物の生存条件にだけ手を入れるシナリオです。なお、結核は当時、有効な治療法がなく死亡率の高い病で、彼がどのように寛解・延命し得たかの医学的経路には複数の想定があり得ますが、本記事はその経路を細かく特定せず、「存命だった場合」の影響を控えめに見積もる立場をとります。


1. 実際に起きたこと(史実の確認)

高杉の短い生涯を、最小限に整理します。

1839〜1862年:松下村塾と上海

高杉は天保10年8月20日(西暦1839年9月27日)、萩の上級藩士の家に生まれました。吉田松陰の 松下村塾 に学び、久坂玄瑞と並んで「識の高杉、才の久坂」とも称された俊英です。文久2年(1862年)には藩命で幕府使節に随行し、上海に渡航。アヘン戦争後、欧米列強に半ば植民地化された清の現実を間近に見たことが、彼の危機感を決定づけたとされます。

1863年:奇兵隊の創設

文久3年(1863年)6月、高杉は下関の廻船問屋・白石正一郎邸を拠点に 奇兵隊 を創設します。武士だけでなく、農民・町人など身分を問わず志願者を募った混成部隊で、当時としては異例の発想でした。師・松陰の「草莽崛起(名もなき在野の者が立ち上がれ)」という思想を、軍事組織として具体化した試み、と整理されることが多い事業です。

1864〜1865年:功山寺挙兵

元治元年(1864年)、第一次長州征討を前に、長州藩の主導権は幕府への恭順を説く保守派(俗論派)が握っていました。これに対し高杉は、元治元年12月15日(西暦1865年1月12日)夜、下関の 功山寺 で、わずかな同志とともに挙兵します。圧倒的に不利な兵力から始まったこの挙兵が、最終的に藩論を倒幕へと反転させた——長州が幕末の主役に躍り出る、決定的な分岐点でした。

1866年:四境戦争(第二次長州征討)

慶応2年(1866年)、第二次長州征討(四境戦争)で、高杉は 海軍総督 として小型蒸気軍艦「丙寅丸」などを指揮し、大島口・小倉口の戦線で活躍したと伝わります。長州はこの戦いで幕府軍を退け、幕府の権威は決定的に失墜しました。

1867年:病死

そして慶応3年4月14日(西暦1867年5月17日)、肺結核により下関で病死。享年は満27(数え29)。辞世とされる「おもしろきこともなき世をおもしろく」(下の句の表記には諸説あり)を残したと伝わります。

ここで重要なのは、高杉が退場したのは、彼が切り開いた倒幕の流れが、まだ完成していない局面だったということです。本記事の「もしも」は、その倒幕後の世界に、立役者である高杉が生き続けていたら何が変わり得たか——という限定条件です。


2. 分岐点 ——高杉という「破壊と即興の人」

高杉の特異性は、彼が 制度の設計者ではなく、局面を一気に動かす「破壊と即興の人」 だった点にあります。

奇兵隊の創設も、功山寺挙兵も、いずれも「動かない状況に、少数で賭けて穴を開ける」という性格の行動でした。緻密な制度設計や、長期の政治運営とは、やや異質の才能です。だからこそ、高杉存命の「もしも」で問うべきは、「高杉が明治政府の宰相になれたか」ではなく、この即興と突破の才能が、平時の建設期に何をしたか(あるいはできなかったか) ——という、もう少し繊細な問いになります。

IFの前提

ここでの「もしも」を、具体的に絞ります。

慶応3年の病死を高杉が免れ、王政復古(1868年)から戊辰戦争、そして明治初期(おおむね1868〜1880年代)にかけて、長州出身の有力者として政局に関与し続けられたら——。

これは「倒幕を実現させた当人が、建設期にも生き残っていたら」という条件です。

過大評価への注意

ただし、ここで強くhedgeしておく必要があります。

したがって本記事は、高杉存命を「明治がより良く進んだ」という英雄譚にはしません。むしろ 破壊の才が建設期に持て余された可能性、あるいは 既存の長州閥と摩擦を起こした可能性 すら含めて、控えめに両面を見積もります。


3. 世界はどう変わるか(短期・中期・長期)

短期(1868〜1869年):戊辰戦争での役回り

高杉存命の世界線で、まず影響が出得るのは 戊辰戦争での軍指揮 です。

中期(1870年代:廃藩置県・征韓論):長州閥の内部力学

ここが、本記事で最も「固有の見どころ」だと考える局面です。

長期(明治中期):憲法・議会の時代に高杉は

最も慎重に語るべきなのが、この長期です。

つまり長期でも、「明治国家の制度設計は伊藤・山県の路線でほぼ成立するが、その路線に至るまでの長州内部の力学が、高杉という一人の存在で違って見えたかもしれない」という、抑制的な結論が妥当だと考えます。


4. 史実では、なぜ起きなかったか

ここで、史実に戻ります。

高杉が病死を免れなかった背景を、リアリティチェックとして整理しておきます。

  1. 当時の結核に有効な治療法がなかったこと:結核菌が同定されるのはコッホによる1882年で、高杉の死(1867年)はその15年前。化学療法(ストレプトマイシン)の実用化に至っては20世紀半ばです。当時の結核は、安静と養生のほかに打つ手のない、致死率の高い病でした
  2. 激務と無理の蓄積:奇兵隊の創設、功山寺挙兵、四境戦争の海上指揮——いずれも心身を激しく消耗させる行動の連続でした。療養に専念できる立場でなかったことが、進行を早めた可能性は否定できません
  3. 若さゆえの無謀:二十代で次々と賭けに出る生き方は、彼の魅力であると同時に、体を顧みない生き方でもありました

つまり、高杉の死は単なる不運ではなく、当時の医学の限界 + 激務 + 体を顧みない行動様式 が重なった結果であり、後世から「もし」を立てやすい事件になっている——という整理が、現代の標準的な見方に近いと思います。


5. ありえた世界線——もう一つの『1867年』

仮に、高杉が肺結核を生き延び、明治初期を生きていたら——その後の歴史は、おそらく次のような特徴を わずかに 帯びたかもしれません(英雄譚に寄せすぎないよう、控えめに記します)。

これは「もし」の限定条件下で導いた一つの解釈にすぎず、史実とは異なります。そして、ここで挙げたいずれもが 確定ではなく可能性 であることを、改めて強調しておきます。とりわけ、彼が建設期に活躍できたという保証はどこにもなく、突破の才が平時に持て余された未来も、同じくらい現実的です。


6. 最後の問い

高杉晋作という人を、一言で言えば「門を開ける人」だったのかもしれません。奇兵隊で身分の門を、功山寺で藩論の門を、四境戦争で幕府の権威の門を——彼は次々と、固く閉じていた門をこじ開けました。けれど、開いた門の向こうを歩く役は、彼には回ってこなかった。

だとすれば、彼が早く死んだことは、ある意味で役柄に忠実な退場だったのかもしれません。門を開ける人は、門を開け終えたら去る。その先の長い廊下を、設計図を引いて歩いていったのは、伊藤や山県のような「枠を作る人」でした。

ここで残るのは、ひとつの落差です。歴史を動かすのに必要なのは、門をこじ開ける突破力なのか、それとも開いた先を地道に作る設計力なのか。高杉は前者の極北にいて、しかし明治という時代が必要としたのは、次第に後者でした。

もし高杉が生き延びていたら、彼自身がこの落差に、誰よりも先に気づいたのではないか——開けるべき門がもう無くなった世界で、突破の人は何をするのか。その問いに史実は答えを残しておらず、だからこそ、この「もしも」は静かに尾を引きます。


この「もしも」を、別角度で楽しむ

高杉晋作・奇兵隊・幕末の長州は、漫画・歴史小説・映画でも多角的に描かれてきました。本記事の反実仮想と読み比べると、幕末の人物像と創作イメージの差分が、より立体的に見えてきます。

映像で深掘りする選択肢

高杉晋作・幕末の長州を題材にした大河ドラマや時代劇は、NHKをはじめ繰り返し制作されてきました。スカパーの時代劇専門チャンネルでは、過去の大河ドラマ・時代劇作品が放送・配信されており、ひとつの選択肢として挙げておきます。


🌀 編集部メモ:

本記事は反実仮想(歴史IF)です。事実関係は幕末・維新期の通説と近年の研究を参照していますが、解釈・推論部分は IF Lab 編集部の独自整理です。高杉の没日(慶応3年4月14日=1867年5月17日。墓碑銘では13日、西暦16日とする記載もある)、辞世の句の下の句の表記、四境戦争での具体的な指揮範囲、功山寺挙兵の同志の人数など、細部には諸説・異説があります。享年は満27歳8か月・数え29歳で本文・末尾とも統一しています。

📚 諸説ある題材です

高杉晋作の没日の表記(4月13日/14日、西暦5月16日/17日)、辞世の句の下の句、四境戦争で高杉が指揮した戦線の範囲、そして奇兵隊脱隊騒動への彼の関わり方の想定——いずれも、研究者の間で諸説、あるいは反実仮想ゆえの推測の幅があります。とりわけ高杉は、同郷の弟子筋が明治政府の中枢に座ったことで後世に英雄化された側面があり、本記事では顕彰イメージと史実を切り分け、確定できない事項は hedge する立場を一貫してとっています。

※別の解釈・反論も歓迎しています。気持ちよく読める形でいただけると嬉しいです。


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